科学と仏教の信じ難い寓話:A君の信念

 A君は、上座部仏教から大乗仏教が生まれ出た理由として、小さな乗物ではなく大きな乗物を用意したかったのだと教えられてきました。でも、A君にはこの成程と思わせる説明は本筋を隠す見事な歴史のレトリックだとしか思えませんでした。さらに、A君は次のように考えました。大乗仏教へのシフトには途轍もない闇が横たわり、上座部仏教からみれば、仏教の堕落はそこから始まり、以後現在まで続くことになるのです。本来の仏教の堕落は底なしであり、それが新しい仏教の繁栄を生む、それが仏教自らが選んだ運命なのです。ですから、仏教ほど矛盾した存在はないのですが、誰もそれは仏教の自己否定ではなく、単なる歴史的変遷だと片付けます。そして、日本で仏教と言えば、大乗仏教ということになっています。そんなA君の抱く仏教と科学の関係をA君に代って述べてみましょう。
 仏教は相対的で、諸派が並立する、わかりやすい宗教です。ですから、科学に似て、パラダイムシフトとしてその歴史を眺めることができます。科学史仏教史には共通点がたくさんあります。様々な宗派が混在し、日本ではそれが神仏習合にまで進み、その寛容性はギリシャ神話に引けを取りません。多神教は複数の原理を認め、その原理自体が目まぐるしく変わることさえ許容します。これは知識が歴史的に大きく変わることとよく似ています。つまり、科学理論、知識、仏教は同じようなパラダイムシフトによって理解することができるのです。科学と宗教は違うという常識は正確ではなく、その歴史的変遷の形態については科学と仏教はよく似ているのです。
 このようなことはキリスト教イスラム教では考えることさえできません。一神教にはパラダイムシフトは起こり得ません。起こったなら、それは破教でしかありません。一神教は神の変化を徹底して認めないのです。仏教では宗派によって、寺院によって本尊は変わります。勿論、パラダイムシフトのない一神教でも歴史的な変化は起こります。宗教改革はその一例です。でも、信仰の対象が、例えばある菩薩から別の菩薩に変わり、基本の経典が別のものに変わるようなことはなく、信仰の対象は唯一の神であり、聖書やコーランが変わることはありません。
 生き物の戦略はパラダイムシフトであり、融通無碍に自然に適応することによって生き残りを図ります。でも、一神教の神の戦略は絶対不変であり、頑なに変化を拒みます。多神教の寛容さ(いい加減さ)は、自然や社会に適応する神々を認めることです。
 科学に似た宗教、それが大乗仏教であり、パラダイムシフトを宗教において認めるのです。これは一神教とまるで異なる多神教のエッセンスそのものと言ってもよいでしょう。これがブッダの説いた仏教の現代的解釈だと胸を張るには余りにブッダの元来の教えとは異なってしまっていますが。
 日本の風土は仏教と科学が同じ次元で扱える下地をもっています。神仏習合が江戸時代の大きな特徴でしたから、仏科習合(仏教と科学の習合)が現代の特徴なのだと言いたくなるのですが、残念ながらそのようにはなっていません。A君が言いたいのは、そうなっていても何の不思議もないということです。このような話は誰も信用しないのですが、誰に聞いてもなぜ信用しないかの理由は全く持って不明のままです。
 でも、科学と仏教が共通点をもち、よく似ているというのは皮肉なことなのか、それとも別の意味をもっているのか、A君によればこれまた誰も真剣に考えないのです。「キリスト教イスラム教と科学は違う。だから、宗教と科学は違う。」という推論は誤っていて、仏教と科学はその歴史的な変化形態が似ている。だから、宗教と科学が違うというのは誤りである。」という推論がその反例になっているとA君は主張するのです。
 A君は、「もっと共通点を探そう。民族の文化も歴史も忘れて、私たちの共通点を探そう。」と願っています。それこそが新たな第一歩であり、市民社会や民主主義を超えるヒントを見つける正しい道筋だと信じています。ですから、上述のように、宗教と科学は水と油、月とスッポンなどと頭ごなしに考えず、柔軟に、大胆に、そして公平に考えていきたいと願っているのです。もっとも、今のところこんなA君の考えは限りなく少数派で、彼が変わり者と受け取られているのも事実です。