「哲学の議論とはどのようなものか」(5)

現場の問い「コイン投げは確定的、それとも確率的」に対する解答例

(7)リンゴの落下からコイン投げへ
 リンゴの落下そのものを確率的なプロセスだと考える人はまずいない。だが、コイン投げとなれば、誰もすぐにその確率モデルを想像するのではないか。リンゴとコインのどこを見比べても、それらの間に古典的な決定論的過程とランダムな確率的過程の違いを見出すことはできそうもない。サイコロと普通の立方体の場合も似たようなものである。リンゴが着地する状態が二つに分割できる、例えば、表面に書いた文字が見えるかどうかで二分できれば、コイン投げと同じことになるのかも知れない。しかし、誰も何度もリンゴを落とし続けないし、リンゴの落下は典型的な自由落下であるとみなされてきた。
 何度も投げることができることによって、投げる際の初期条件の集合を想定することができる。何度も投げることを時系列に従って1回毎に線形に並べれば、それは決定論的な因果的過程とみなせるのだろうか?みなせるなら、それは明らかに不連続な過程となるだろう。例えば、コインを投げ、表が出て、次に投げるまでの間はどのような因果過程となるのか。地面に落ちたコインを拾い、再度投げる準備をする過程はどのように記述できるのか。これらの過程はコイン投げ自体とは連続しておらず、コイン投げの繰り返しを考える場合、コインが投げられればよいという以外の条件は何もついていない。次のコイン投げが一日後だろうと半年後だろうと一向に構わない。3回目を東京で、4回目を大阪で投げても文句は出ない。コインが投げられるときには必ず同じ条件で投げられる、というだけで十分ということになっている(ここに登場する「同じ」は曲者なのであるが)。次のコイン投げの初期条件がどのように決まるか、いつ決まるかは初期条件空間をつくる際には考慮する必要のないものである(連続的であることが二つの異なる意味を含んでいることがこの文章から明らかになるだろう。実数が連続的という意味での連続と、出来事が途切れることなく続くという意味での連続である。)。
 投げられたコインを拾う過程とそれを投げる過程が連続しているなら、コイン投げはマクロな因果的過程の一部として存在し、それゆえ決定論的になる。コイン投げの過程の連続性と、他からその過程への介入がないことが保証され、それゆえ、閉じた過程であれば、その過程に登場する物理量は当然ながら保存されることになる。連続的なコイン投げの文字通りの物理的な実現は、保存性、連続性、閉鎖性が密接に結びついていることを示してくれる。保存的、連続的、閉鎖的な変化の中に「繰り返し」を見出すこと、挿入することはできず、それゆえ、コイン投げやその結果の頻度や分布といった表現は意味をなさないことになる(世界全体の繰り返しではないので、ポアンカレ再帰定理を思い起こす必要はない)。これら条件を満たす因果過程に全く同じ繰り返しの過程は存在せず、一つの過程の一部に類似した過程、単なるパターンがあるように見えるということでしかない。
 コイン投げが確率的、ランダムなのは、初期条件集合が表裏のランダムな分布を説明するからではなく、単にそのような初期条件集合が私たちに確率的な結果を生み出すと誤解させることに過ぎない。初期条件集合が表裏のアトラクターに吸引されるベイスンとなっていることが確率的であることの根拠だとすれば、その初期条件の一つ一つが実現しなければならないが、その保証など実はどこにもないのである。
 いずれにしろ、これまでの力学的モデルによるコイン投げは、なぜコイン投げが確率的なのかを十分に説明しているようには見えない。それどころか、確率的なコイン投げは不可能ということを強く示唆しているようにさえ見える。
 マクロな世界で個々の出来事や状態が確率的に起こることは不可能、これが私たちの健全で、常識的な判断で、ラプラスの判断でもある。そこにランダムな現象の存在を見出そうとすれば、マクロな世界が、一つの連続した、単純な因果的過程ではなく、神話や物語がもつプロット付きの因果過程、不連続で、分岐的な因果過程を含むものであることを認めなければならない。なぜなら、現実離れし、俯瞰的な見方をすることによって、複数の因果過程を対象にした確率モデルを構成できるからだけでなく、そのモデルがランダムな現象を説明できることを経験的に確かめることもできるからである。
 物語は確率的な要素を含めることができる余地をもっている。因果性に固執した過程だけでなく、不連続的に話を打ち切り、別のシーンへと移り、新たな過程をスタートさせることが自由にできる、それが物語であり、物語で描かれる世界である。物語のプロットの存在は出来事や状態の不連続性、それらの組み換えを前提にしている。
 私たちが理解する世界の因果的な時間発展はプロットを含む、つまり、不連続な初期条件の存在を認める。私たち自身が因果的な過程をスタートさせること、打ち切ることができるような世界に私たちは住んでいる。調理できる材料として個々の因果過程を考えることができることが、プロットをもつ因果的世界の特徴である。だが、物語のプロットが一切なく、物理的な自然の因果過程が一つだけあるというのが古典力学のモデルである。

(8)そしてミクロな世界で…
 以上のようなマクロな世界の変化をミクロな世界のそれと比べてみよう。すると、二つの世界の状態が如何に異なるか、量子の世界の特徴を二つ挙げればそれがわかるだろう。

1. 微視的な世界では,物理系の状態の変化が不連続的に起こりうる。
2. その不連続的な変化では、ある状態から移ることができる状態が複数あり、そのどれにいつ移るかが確率的になっている。原因と結果の1対1の対応がなくなり、決定論的な因果性が成立しない。状態変化が一意的でないのは私たちの知識がまだ不十分だからではなく、本質的に不確定と考えられている。

 かつての原子論の原子は粒子であるが、その運動は連続的なものと想定されていた。だが、現在は物質の構成単位が離散的なだけでな、その運動も離散的であると考えられている。量子力学の言葉を使えば、このような変化は「ある物理系の状態が別の状態に不連続的に遷移する」と表現されている。
 古典物理学の世界では世界を記述する言葉は粒子の位置と運動量である。だが、量子力学はこれとは違う言葉を使う。それは「状態」で,私たちが注目する対象の様子を表現し、数学的には成分が無限の複素数ベクトルで表現されるものである。ごく一般的な説明をするとすれば、次のようになるだろう。
 「状態」を知れば、それから必要に応じて個々の粒子の位置や運動量の情報を得ることができる。ある水素原子に注目すれば、その中の一つの電子はある特定の「状態」をもっている。そして、この水素原子中の電子の状態は、離散的なエネルギーのものに限られる。それぞれの状態で電子がどこにあるかと聞かれれば、エネルギーの高い状態ほど原子核の陽子から離れて大きく広がっていると答えることになる。しかし、ある瞬間にどこの位置にあるかを知りたいと思うと、マクロな世界とは違う厄介なことが起こる。状態は決まっていても、位置は定まっていない、それもふらふら動き回っていて定まらないのではなく、この定まっていない「状態」が水素原子中の電子の状態そのものなのである。状態は変化でき、水素原子中でエネルギーの違う状態に「遷移する」ことができる。エネルギーの高い状態から低い状態に変わるとき、その差にあたるエネルギーが光として放出される。これと逆の過程が起きるのは、光が先にあって、それを電子が吸収したときである。しかし、あまり大きなエネルギーの光を吸収すると、電子は原子から飛び出してしまい、水素原子はイオン化する。状態間の遷移では、二つの状態のエネルギーは正確に定まっており、そこから出てくる光のエネルギーも正確に決まっている。いろいろな原子が同じように光を放出するが、そのエネルギー、つまり振動数はそれぞれに定まっている。このように,今までは連続的な量や連続的な変化だと思っていたもののなかに、離散的な値しかとらず離散的な変化しかしない場合があるのである。
 また、原子の世界の周期的な運動が時間そのものなのだから、この運動と離れた時間というものはない。存在するのは時間ではなく、時計なのである。原子や分子の振動を使った現代の時計は、その針の示すものが時間そのものなのである。 
 放射性元素の崩壊での確率は、どの原子核が壊れるかを私たちが知らないからではなく、どれが壊れるかが決まっておらず、自然が本質的に確率的なものであることを示している。これが量子力学からの帰結である。