二つの記念碑

 聖路加は「せいるか」と読むのが正しいらしいのだが、誰もが「せいろか」と呼ぶ。正確には聖路加国際病院(St. Luke's International Hospital)。市場から晴海通りを越せば、静かな一角で、あかつき公園、タイムドーム明石、聖路加は都心の一角とは思えないほど緑が多い。明治の初めの頃この辺には外国人居留地があり、ハイカラな場所だった。
 聖路加の敷地は中津藩主奥平家の中屋敷のあった所で、前野良沢杉田玄白中川淳庵桂川哺周らは、ここで安永3年(1774)に『解体新書』を出版した。日本の蘭学興隆の出発点となった場所である。「蘭学の泉はここに」の碑があり、その碑文は次の通り。
「1771年・明和8年3月5日に杉田玄白中川淳庵とが前野良沢の宅にあつまった。良沢の宅はこの近くの鉄砲州の豊前中津藩主奥平の屋敷内にあった。3人はきのう千住骨が原で解体を見たとき、オランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアの図とひきくらべてその正確なのにおどろき、発憤してさっそくきょうからこの本を訳しはじめようと決心したのである。ところがそのつもりになってターヘル・アナトミアを見ると、オランダ語をすこしは知っている良沢にも、どう訳していいのかまったく見当がつかない。それで身体の各部分についている名をてらしあわせて訳語を見つけることからはじめて、いろいろ苦心のすえ、ついに1774年・安永3年8月に解体新書5巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめて、これから蘭学がさかんになった。このように蘭学の泉はここにわき出て、日本の近代文化の流れにかぎりない生気をそそぎつづけた。」
 また、同じ中津藩士福澤諭吉は、安政5年(1858)藩邸内に蘭学塾を開き、この塾が後に慶應義塾となった。「慶應義塾発祥の地」記念碑は、『学問のすゝめ』初編初版本の活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と刻まれている。創立百年を祝って建立されたのだが、その記念切手を町の郵便局に買いに行ったのを憶えている。切手の図柄は赤煉瓦の旧図書館だった。碑文は端正な日本語で、今とは違って新字体である。
安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く。創立百年を記念して昭和三十三年慶応義塾これを建つ。」

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(病院横の歩道)

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(「蘭学の泉ここに」)

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(「慶應義塾発祥の地」)

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(二つの碑がある一角)