築地居留地と記念碑を知ること

 (以前の「二つの記念碑」、「元居留地の残滓」も読み直してみて下さい。)

 明石町界隈を徘徊しながら、人が何を見て、何を感じるかを時間をかけて考える楽しみを味わうことができた。人を想い出すように、ものを想い出し、ものを想像するように、人を想像するのが私たちの心の習性。亡くなった人やものへの想いは様々な感情を伴い、その感情が知る内容に陰影を生み出している。明石町の街並みは様々な時間が交錯しているような気分にさせてくれる。それは何も不思議なことではなく、記念碑があちこちにあるためである。

 「私たちは自ら直接知覚して知ることと、言葉を通じて教えられて知ることと、一体いずれが多いのだろうか」と問われたなら、生粋の経験主義者として私は、知覚であれ言葉であれ、経験しないことには何も知ることができない、とまずは答えることにしている。

 経験することによって知ることは私たちがもつ最善の知る方法である。実験はその代表的な方法で、経験的な知識のコアである。実験の積み重ねは訓練となり、ツボやコツを掴む職人のように実験に精通し、確実な知識を獲得することになる。文献を読むことの訓練も同じような経験の一つ。読み方のコツは絶え間ない訓練によって身についていく。証明を考察する経験は、棋士が勝負に勝つ道筋を見つけるように、結論へと至る道筋を見出してくれる。論理を意識的に使う経験は、言葉を使った議論や陳述を構成し、説明や説得の方法となっている。これらはいずれも自ら何かを知ろうという経験である。

 既に述べたように、鉄砲洲と呼ばれていた明石町には豊前中津藩の中屋敷があった。藩医前野良沢らはこの地で『解体新書』の翻訳を完成させた。さらに後年、同じ中津藩士福沢諭吉が屋敷内で開いた蘭学塾は、後に慶應義塾となった。

 その後居留地ができるのだが、外国商人たちには人気がなかった。1872年に新橋と横浜の間に鉄道が開通し、横浜からの日帰りが可能となり、築地に根拠地を置く必要はなくなった。築地居留地に関心をもったのは、キリスト教各派の教会とそれが経営するキリスト教系学校だった。何と13もの会派が進出し、ほぼ10の聖堂が建設された。これらの教会は、それぞれの学校を開設した。それが、明治学院大学女子学院青山学院大学立教大学、双葉学園、暁星学園関東学院大学、女子聖学院などに発展する。さらに、フォールズのツキジホスピタルや、トイスラーの聖路加病院など、キリスト教系病院も生まれる。現在学校は移転し、聖路加国際病院だけが残されている。そのため、明石町には多くの学校の創立記念碑が建てられている。それらを見ながら、思いついたのが知識の5段階評価である。要は私がどれだけそれらの記念碑の学校を知っているかを5段階評価してみようと思ったのである。

(1)知覚し、体験し、精通している(これ以上知るには学ぶしかない)

(2)知る経験をして、ある程度知っている(もっと知る)

(3)教えられ、学んでいる(もっと学ぶ)

(4)よく知らない(これからよく知る、学ぶ)

(5)全く知らない(一から知る、学ぶ)

 さて、これらの評価基準に従って、記念碑を比べてみよう。慶應義塾は長年いたのでよく知っている。少なくとも私はそう思っているので、(1)。青山学院、関東学院はいずれも非常勤講師を何年かやっていたので、ある程度は知っている。だから、(2)。暁星や双葉は同じクラスに出身者がいた。立教では後輩が教えている。明治学院には仲のよい教員がいた。だから、これらは(3)あるいは(4)。他の記念碑は名称以外は何も知らず、それゆえ(5)ということになる。そんな分類をしてみると、それぞれの学校について「知る」ことの程度が違っていて、記念碑が何を伝えようとしているかが大きく違ってくる。私が何も知らない人や事柄についての記念碑に私は大した関心を示さない。聖路加の周辺にある記念碑が私に訴えるのは皆歴史的な事柄なのだが、私の反応は私の今の知識や過去の経験に応じて大きく異なってくる。(読者にも5段階評価をしてみてほしい。皆違う評価になる筈である。)

 私たちは日常の生活の中で、様々なものを知覚し、経験しているのだが、それらは私たちの知識や過去の経験に応じて随分と違っている。それらは、関心の度合いだけでなく、知覚や経験そのものを変えるほどの影響を及ぼすことがある。その際の影響力は未来の予測より過去の経験が圧倒的に大きいのである。

 外国商人の根拠地として設定されたのが築地居留地。築地、明石町の地域は鉄砲州とよばれていた。隅田川に面した地域は河岸場として使われ、内陸部分には大名などの武家屋敷があった。幕府は武家地などを収公して、居留地建設をすすめた。

 この居留地は、北部・中部・南部に分割される。現在の明石町にあたる中部地区が本来の居留地であり、この地区の武家屋敷や町地はすべて取り払われ、街路を付け直し、整地した上で、1870年より当初52区画に分割して外国人に貸し出された。この地域は、水路が縦横に張り巡らされ、築地居留地は水路で囲まれていた。様々な悪条件が重なって、設置当初の築地居留地は人気がなく、52区画のうち20区画しか応募がなく、現実に建設されたのは10区画のみだった。

 このような記述は私にとっては(3)あるいは(4)。だが、幕末から明治にかけての江戸の歴史を研究している人には(1)か(2)である。このようなムラ、濃淡は通常(3)を徹底することによって平準化される。そして、徹底した平準化は個別の経験ではなく、同じ教育ということになる。