知ること(1)

[「知る」ことの種類]
 知っていること、知っているものは「知る」ことの結果であるから、知識は「知る」ことの分析を通じてその特徴を明らかにすることができる。実際、知識は私たちの知り方に応じてさまざまに分類されてきた。その代表的な分類は二つあり、「何であるか」の知識(know-what knowledge)と「どのようにするか」の知識(know-how knowledge)、そして、命題的な知識(propositional knowledge)と命題的でない知識(non-propositional knowledge)である。二つの分類は同じ分類に見える。名人の技は命題で表現できないように思えるし、「何であるか」という事実についての知識は命題によってしか表現できないように見えるからである。しかし、二つが同じ分類かどうかはよくわかっていない。また、「私は彼女の父を識っている」というように、面識がある、親しいといった「知る」の意味もある。

(問)次の文はどのような知識について述べているか。
日本の首相を知っている
自転車の乗り方を知っている
彼の怒りを知っている

上の問いから気づく点がある。「自転車の乗り方を知っている」とわざわざ言うだろうか。「自転車に乗れる」というのが普通であろう。通常、「どのようにするか」のコツや技術は「知っている」とは言わない。また、同じように「怒りを知っている」とも言わない。「怒りがわかる」といった言い方をするだろう。このように、私たちの「知っている」の使い方は上の分類の一部に限定されている。ここで考える知識はより広い範囲のもので、事実に関する知識だけでなく、私たちが身につけることのできるものすべてを含んでいると考えておこう。しかし、残念なことに知識の正確な範囲が確定しているわけではない。
[知識=正当化された真なる信念]
 ところで、知識、信念、真理(knowledge, belief, truth)の間にはどのような関係があるだろうか。いずれの間にも強い関連がありそうである。知識には信念と真理が必要とされている。つまり、信念と真理は知識にとっての必要条件である。では、それらは十分条件か。この問いに対して次のような説を考えてみよう。それは知識についての「正当化された真なる信念」説である。正当化された信念とは、何らかの方法で確認された信念である。実験や証言はそのような正当化の方法である。この説によれば、知識とは「正当化された真なる信念」である。この説の主張を具体的に述べれば次のようになる。

どのような個人S 、命題pについても、S がpを知るとは次のことと同じである。
(1)Sはpを信じる
(2)pは真である
(3)Sはpを信じる正当な理由をもつ

[「正当化された真なる信念」への疑問]
 さて、「正当化された真なる信念」説は正しいだろうか。この説が正しければ、正当化された信念と真理は知識の必要十分条件ということになり、私たちが常識的に考えている知識像が得られる。知識が単に信念や思いつきでないのは、それが正当化されている、証拠をもっている、理由をもっているからであると言われてきた。この伝統的な見解はプラトンの『テアエテトス』やカントの『純粋理性批判』において主張され、「知識とは正当化された真なる信念である」と要約されてきた。この伝統的見解に対し、正当化された真なる信念であっても知識とは呼べない場合があり、したがって、知識の伝統的な分析は誤っていることを示したのがゲチア(Edmund Gettier, 1927-)である。(“Is Justified True Belief Knowledge?”, Analysis, 1963, Vol.23, pp.121-23)彼は知識をもたないが、正当化された真なる信念をもつことができる例をつくった。彼の例を見てみよう。

(物語)事務所に勤めているAは、誰かが直に転勤することを知っていた。信頼できる上司がAに転勤するのはBであると告げた。その時、AはBの財布に1万円あることも知った。そこで、Aは次のように推論した。

(1)Bは転勤し、財布に1万円もっている。
(2)だから、転勤する人は財布に1万円もっている。

このようにAが推論することは正しいだろう。しかし、実際に転勤するのはAで、そのことをAは知らず、その時Aもちょうど財布に1万円もっていたとする。その時、Aは(2)を信じており、また(2)は真である。Aはそれを(1)から演繹したのであるから、(2)を信じることは正当である。(1)は偽であるが、Aはそれを真であると考える十分な理由をもっている。したがって、(ゲチアによれば) Aは正当に(2)を真であると信じるが、(2)を知らない。
 命題的な知識は三つの、それぞれが必要で、それら連言が十分である条件をもっている。それらは正当化、真理、信念である。真理条件は、どんな知られた命題も真であることを主張している。正当化条件によれば、知られた信念は証拠によって支持されなければならない。さて、上の例は正当化された真なる信念をもっているが知識とは呼べないような例になっている。Aが正当な理由で(1)を信じ、それに基づいて(2)を信じる。(1)は論理的に(2)を含意し、Aはそのことを知っているので、Aには(2)を信じる十分な理由があることになる。そして、(2)は真である。しかし、Aは(2)を知っていない。
 この推論の構造を抜き出してみよう。(1)の命題をp、(2)の命題をqとすると、

1 pは真でない
2 Aはpを信じる
3 Aはpを信じる正当な理由がある
4 p⇒q
5 Aは(p⇒q)を信じる
6 Aは(p⇒q)を信じる正当な理由がある
7 Aはqを信じる
8 Aはqを信じる正当な理由がある
9 qは真である
10 だが、Aはqを知っていない

となるだろう。この推論で問題になるのはqが真かどうかそれ程明確でない点である。これは、qが正当化されているのであるから、正当化は真であることを含意すると考える場合(上の説明はそのようになっている)と、正当化は真であることを含意しないと考える場合に分かれるだろう。正当化が真であることを含意しないとは、偽である正当化された信念があることを意味している。いずれの場合であれ、正当化が内在的になされるだけでは十分でなく、信念がどのように世界に関係しているかを考えなければならない場合があることをゲチアの反例は示している。
 この例だけではわかりにくいと思われるので、次の例で信念と真なる事実の間の違いを見てほしい。

ラッセルの例)公園の信頼できる時計:散歩の途中で公園の時計を見たら9時30分だった。あなたはそれが信頼できる時刻であると信じることができる。しかし、時計は一日前に止まっていたとしてみよう。それをあなたは知らない。信頼できる時刻9時30分を信じることができるが、あなたはそれが正しい時刻であることを知らない。

(伊作の例)伊作はこれまで部屋の左のドア近くにあるスイッチで、電気をつけていた。しかし、今日はそのスイッチが壊れている。伊作はそれを知らず、いつものようにスイッチを入れた。ちょうどその時、右のドア近くのスイッチを弟の史門が入れたために電気がついた。伊作の信念は正しいが、それは事実と異なっている。

(問)ゲチアの例、上の2例から、「信じる」ことと「知る」ことがどのような関係になっているか述べよ。

 上の例に共通する点は、いずれの主人公も信じている命題に関するきわめて信頼できる証拠をもっているが、それが誤り得ないという保証はもっていないということである。ここから導かれるのは懐疑論(Skepticism)である。では、どのような条件が満たされれば、あることを「知っている」、つまり、あることの知識をもつと言えるのだろうか。ゲチアの反例に対する対応にはさまざまなものがある。いきなり現代の対応を考える前に、知識を私たちはどのように捉えてきたのか知っておかなければならない。懐疑論は知識に対する懐疑であり、知識の存在を脅かしてきた。知識への懐疑とはどのようなことか、次に考えてみよう。