知ること(3):基礎付け主義

基礎付け主義とは何か
[数学的知識の基礎付け]
 ユークリッド幾何学の方法は、明らかな公理から出発して、次第に複雑な定理を順序立てて証明して行くものだった。このようにして得られる幾何学的な知識は階段状に整列され、知識のピラミッドとして土台からしっかりと組み上げられ、階層的なネットワークをなしている。これを知識の理想的な形態とし、知識はこのように基礎付けられたものでなければならないという主張が知識の基礎付け主義の一般的な理解である。
 公理的な数学システムという考えはヒルベルト形式主義によって20世紀数学の際立った特徴となった。そして、集合論を土台にして数学全体を具体的に基礎付けようとしたのがブルバキ(Nicolas Bourbaki)の仕事であった。彼らはヒルベルト形式主義集合論を使って20世紀数学の基礎付け主義的な再構築を行なったのである。数学はMathematicsという複数形で表現されるが、彼らはそれをしっかりした基盤の上に構造の違いから分類された各数学理論を段階的に積み上げる仕方で壮大な理論の建物を築き、一枚岩の単数形の数学家屋Mathematicをつくろうとした。数学の各理論はそれぞれ異なる数学的な内容を扱うが、それら内容はその構造に従って分類される。数学が扱う基本構造は「代数構造」、「位相構造」、そして「順序構造」である。これら構造に基づいて、より一般的な理論から特殊な理論へと階層的な仕方で配列され、相互の論理的な関係が明らかにされていく。
[経験科学の基礎付け]
 では、数学以外の知識はどうか。ニュートン力学は『プリンキピア』の構成を見ればわかるように、数学の基礎付け主義的方法を巧みに利用したものだった。ニュートンの仕事によって、物理学の知識もしっかりした土台から始まり、順次複雑な現象を扱うように組み立てられることになった。数学と物理学の基礎付け主義的な知識の扱いとその成功は、当然ながら他の領域の科学的知識に対しても大きな影響を与えることになる。数学の利用は量的な研究を可能にするというだけでなく、研究成果である知識についての基礎付け主義的扱いも可能にしたのである。
 この基礎付け主義的な知識の扱いはどのような科学理論に対しても言えるのか。現象的な諸理論、動物学、地質学といった特殊な理論に対しても基礎付け主義的な研究は可能なのか。この問いは19世紀以降の科学の進展を見れば明らかであろう。いずれの科学も物理学への還元、物理学的な説明を努力目標にしてきた。還元主義が物理学への還元であるといつも考えられ、説明が物理学的な因果的説明であると考えられるのは物理学が十分基礎付けられた知識に支えられているからである。
 公理から出発する場合、公理そのものの基礎付けはどうなるかという素朴な疑問が出てくる。この哲学的な問いよりは、基礎付け主義の出発点に関してはとやかく言わず、基礎となる知識を仮定した場合、そこからどのように知識全体が構成できるかということに科学者はより関心をもった。そして、公理の正しさはそこから得られる命題の経験的な験証に委ねられた。したがって、数学や物理学での基礎付け主義は出発点を仮定した上での条件付きの基礎付け主義になっている。これは基礎付け主義に限ったことではない。経験科学の「経験」についても科学は相互に承認された一定範囲の経験で満足する。
[基礎付け主義の歴史]
 認識論的転回が存在論から認識や知識の理論への関心の転換であったことは既に述べた。基礎付け主義は知識の始まりを追求するものである。デカルトは、人間の精神はすべての知識を発見できると示唆したが、ヒュームのようなイギリスの経験主義者は感覚経験以外の知識を疑った。このギャップを埋めようとしたのがカントである。彼はデカルト風の理論とヒューム風の理論を結び合わせ、認識論的転回が暗礁に乗り上げるのを食止めようとした。このように認識論的転回と密接な関係をもつ基礎付け主義を詳しく見てみよう。
 デカルトは人間の知性あるいは理性能力は哲学者が認識についてもつ懐疑の壁を乗り越えることができると信じていた。デカルトは心の二つの能力に注目した。一つは直観で新しい観念を生み出す力をもつ。他は演繹の力で観念を組み合わせて新しい観念を導き出すことができる。信頼できる知識は明晰にして判明な観念に基礎を置いたものであるから、信頼のできる知識だけが直観から得られなければならない。また、それは観念の明晰さと判明さによって確かめられなければならない。デカルトは彼の最初の推論的でない信念、コギトを見出すが、合理主義者のデカルトが信じることのできる唯一つの信念は推論的でない観念に依存し、そこから明晰、判明に得られるものだった。どこからでもなく、自己からしか来ないこれら観念は、それゆえ、アプリオリで生得的である。無論、ここでは自己が仮定されており、知識は内在主義的に特徴づけられることになる。
 ロックは生得的な観念を信じていなかった。人間の心は何も書かれていない白板 (tabula rasa) であり、そこに後から感覚知覚が書き込まれる。これが知識の始まりである。心は受動的で、世界は自らをこの心に投影できる。だが、私たちは世界それ自体を経験できなく、経験できるのはこの投影だけである。ロックはこの投影を第二性質(secondary qualities)の知覚と呼んでいる。私たちが対象を見なくともそれが消失しないのは実体があるためである。バークリーの知識概念はロックに似ているが、彼はロックのように物質世界や実体を信じなかった。「知覚されないものは存在しない」と言ったのは彼である。見えなくなってもものが消失しないことを説明するために、彼は神がいつもすべてを観察していると考えた。ここまでの二人は合理主義者と共通点をもっている。共に経験的基礎をもたない仮定を置いた。事物の存続をロックは実体で、バークリーは神の観察で説明した。これは経験主義的ではない。では、どのように事物は存続するのか。その必要は必ずしもない、とヒュームは考えた。ヒュームは経験主義を大胆に徹底する。実体は経験できない。だから、実体について有意義なことは何も言えない。同様に、神は経験できない。だから、神について有意義なことは何も言えない。だが、この経験主義の徹底は根本的な懐疑論へと導かれる。
 カントは合理主義と経験主義を組み合わせ、私たちは知識をもつことができるが、それには条件がつくと考えた。すべての知識は経験から始まるという点で経験主義と同じであるが、すべての知識が経験だけに由来するのではないという点で経験主義とは異なる。カントによれば、経験がまとめられるような原理、つまり、アプリオリなカテゴリーが心の中にある。カントにとっては、実体や属性と同じように、因果性は心が理解できるように経験をまとめる仕方である。カントはヒュームに賛成して、物自体、自我、神については何も言えないと考える。だが、そのような代償を払えば、投影である現象についての知識はもつことができると考えた。
[哲学的な基礎付け主義]
 では、哲学的な基礎付け主義をどのように考えたらよいのか。基礎付け主義は、推論によっては正当化できない信念の最終的なレベルがあるという見解である。他のすべての知識はこのような信念から導き出される。したがって、私たちの信念は二つのクラスに分けられることになる。他の信念から支えられる必要のあるものとそうでないものである。基礎付け主義が恐れ、それゆえ、基礎付け主義を促すのは無限後退の怖れであった。すべての正当化された信念が別のそのような信念から推論されることだけで正当化されるなら、この正当化の過程は無限に続くことになってしまう。この無限後退を避けるためには、推論の鎖を遡り、後退することを阻止する、直接的に正当化され得る信念に到達すると仮定しなければならない。これらの直接的で推論から出てこない正当化された信念は他の信念に基礎を置いてはいない。それらは支持される理由があるゆえに知識と見なされるのではない。それらは心が直接に把握できる特別の領域の事実であるから知識と見なされるのである。これらが「所与 (given) 」と呼ばれるものである。無限後退に陥ることを防ぐという考えは知識と自然という違いはあるが、トマス・アキナスが神の存在証明で考えたものと同じである。
 彼女が見ているリンゴが本当に実在するかどうか私たちは疑うことができる。しかし、彼女が疑うことのできないものがある。それが「所与」、つまり、ある種の感覚データである。それは意識(経験自体)に直接に現前するもので、すべての経験的知識の基礎となるものである。これが古典的な基礎付け主義の主張である。

(問)目の前のリンゴを見て、「リンゴがある」と述べたときの所与は何かを説明せよ。

デカルトの基礎付け主義
デカルトの懐疑]
 アリストテレスに始まる基礎付け主義は知識を建築の土台とその上の階層的な建物の比喩で捉える。あらゆる知識は疑い得ない基礎となる知識をもとに組織的に構成されていなければならない。知識が基礎付けられていなければ。それは疑い得ることになる。デカルトは方法論的懐疑で有名であるが、その目的は懐疑論の克服にあった。彼は懐疑をすべての対象に適用し、懐疑テストにかけた。そのテストの結果、経験的な信念だけでなく、理性的なもの、例えば数学的命題も疑い得ることになり、いずれも懐疑テストをパスしないことがわかった。しかし、そのような懐疑テストをパスするものが一つだけあった。「私が考えていることを私が疑う」ことを私は疑うことができない。私は「私が考えている」という命題を信じ、しかしそれは誤っているという可能世界を考えることができない。だから、「私が考えている」という命題は懐疑テストをパスする。したがって、その命題を疑うという試みはそれが真であるに違いないことを証明する。これが有名な「われ思う、ゆえにわれあり(Cogito ergo sum.)」である。

(問)「私が考えていることを疑う」ことはなぜ疑うことができないのだろうか。命題「私は存在する」は懐疑テストをパスするか。また、私たちの感覚的な経験はどうか。

デカルトの論証]
 ここで心的なものの訂正不可能性のテーゼを次の推論を通じて考えてみよう。

私の前に黒板がある
私の前に黒板があると私は信じる
私がそれを信じるなら、私がその信念を持つことは正しいに違いない。

デカルトの知識の基礎についての目論見には、「私が考える」、「私が存在する」を含む「私」に見える世界についての一人称の報告が含まれている。主体の経験内容は主体の心の外にある世界の有様については何も語らない。主体が表象する経験内容についての一人称の報告をデカルトは疑うことのできないものと見なした。「私は痛い」と私が信じれば、私は痛いのだというのがデカルトの見解である。
 さて、この訂正不可能なものを使ったデカルトの論証はどのようになっているのか。

(1)私は今私の前にあるのが黒板であると信じる。
(2)私の現在の信念は明晰にして判明である。
(3)明晰にして判明な観念は真である。
したがって、私の前には黒板がある。

デカルトの基礎付け主義は、この論証の前提が疑うことができないものであること、この論証の結論が私たちの知る命題であること、の二つからなっている。前提は訂正不可能なもので疑うことができない。したがって、その結論も疑うことができず、私たちは結論を知ることができる。
 しかし、(3)が正しいとしたとき、(2)も正しいだろうか。私の現在の信念は明晰にして判明であるだろうか。逆に(2)が疑い得ないとしたら、(3)も疑い得ないのだろうか。「明晰にして判明」は純粋に主観的な信念だろうか。そうならば、その信念が真である。ことはどのように得られるのか。また、「明晰にして判明」が真であるために必然的な特徴であるなら、信念が明晰にして判明であることはどのようにわかるのか。このような疑問がデカルトの論証について出てくる。