知ること(4):知識の信頼可能性理論

[知識の信頼性]

 デカルトの論証によれば、知識は内的に保証可能である。前の論証は主観的な前提、客観的な結論、そして結合前提(主観的前提を客観的結論に必然的に結びつけるもの)からなっていた。デカルトの知識についての理論の特徴は次のように言える。もし主体が結論の真であることを知るなら、そのとき主体は結合前提が真であることを知らなければならないし、また、そのことを感覚経験とは独立に知っていなければならない。つまり、知識は内的に保証可能である。これがデカルトの内在主義(internalism)である。
 このデカルトの知識論とは異なり、結合前提は内観やアプリオリな推論によって知られる必要はないというのが知識の信頼可能性理論(reliable theory of knowledge)である。例として、温度と温度計、そして温度表示を考えてみよう。温度計は部屋の温度を計り、それを表示する。部屋にある温度計が信頼できる温度計であれば、そこに表示される温度を正しい室温と考えるだろう。この過程と同じように知識を考えたらどうなるか。次の比較を参考にすると、知識の信頼可能性理論の構図が見えてくる。

温度計の目盛りの値が外界の温度を表示する ⇔ 君の信念が心の外の世界を表示(=表象)する
温度計の目盛りの値が正確(不正確)である ⇔ 君の信念が真(偽)である

 では、信頼できる温度計とはどのようなものか。それは偶然に目盛りの値と温度が一致するものではなく、いつも一致するものでなければならないだろう。では、信頼できる温度計は存在するか?当然そのような温度計は存在する。それは次のような信頼性の条件を満たせばよいだろう。

温度計は正しい環境で使用されなければならない。
温度計の内部の構成は正しくなければならない。

このような信頼できる温度計がそれの計る正しい温度を通じて外界に関係しているように、個人が真なる命題を通じて外界に関係しているなら、その人はその命題を知ると言えるだろう。これが知識の信頼可能性理論の主張である。デカルトと対照的に比べてみると次のようになる。

デカルトとの比較]
信頼可能性理論では、S がp を知るとは次のことである。
S はpを信じる。
p は真である。
Sがいる環境において、Sがpを信じるなら、pは真でなければならない。
それゆえ、pである。

デカルトでは、S がp を知るとは次のことである。
Sはpを信じる。
Sのpについての信念は明晰にして判明である。
明晰にして判明な観念は真である。
それゆえ、pである。

 デカルトと信頼可能性理論との知識の特徴付けの違いは内在主義と外在主義(externalism) の違いである。「真」なる知識の保証はデカルトでは精神に内在的なものによって与えられるが、信頼可能性理論では環境によって外在的に与えられる。

(問)知識に関する内在主義と外在主義はどこが異なっているか。

[三つの不可能性]
 ここで、不可能性の三つの概念を区別しておこう。その三つとは論理的必然性、法則的必然性、状況的必然性である。以下の文はそれぞれどのような必然性だろうか。

どんな人も既婚の独身者ではあり得ない。
どんな人も光速以上に速く走れない。
彼は病気で起き上がることができない。

最初の文は論理的な必然性を、次の文は法則的必然性を表している。最初の文は「既婚」と「独身者」の語の定義から論理的に正しく、相対性理論の前提から二番目の文は自然法則に従っているという意味で正しい。では、最後の文はどうか。これは法則からは出てこないし、分析的でもない。この文は単に事実を述べたものでしかない。温度計の目盛りの値は、温度計が適切に作られ、適切な状況で使われるならば、法則的必然性から、正しくなければならない(誤ることができない)。ここで、次の論証を考えてみよう。

Sは今Sの前にあるのが黒板であると信じる。
Sは自分のいる環境で、その前に黒板がない限りその前に黒板があると信じないだろう。
それゆえ、Sの前には黒板がある。

上の論証は「知る」を含んでいない。では、知識と関係ないのか。信頼可能性理論では、Sは結論をその前提が真であるゆえに真であることを知る。しかし、Sは前提が真であることを知る必要はない。また、Sは前提に対して感覚経験とは独立の論証をする必要もない。これがデカルトと異なる点である。
 信頼可能性理論では、「Sがpを知る」ことは主体Sと命題pの他に三番目のものにも依存している。それはSの環境の特定である。したがって、「Sがpを知る」は、

環境Eに相対的に、Sはpを知る
環境E’に相対的に、Sはpを知らない

ということになる。この環境が状況的必然性を与え、それによって「知る」、「知らない」が保証されるのである。
[知識の内在主義と外在主義]
 今までの話をまとめておこう。現代認識論では外在主義と内在主義という区別が知識の正当化と説明の両方において広く用いられている。認識上の正当化についての内在主義は信念が正当化されるために必要なすべての要素は主体が認識上それらに接近することができなければならず、したがって、主体の心の内側になければならないという見解である。それゆえ、デカルトの考えは典型的な内在主義である。これに対して、正当化に関する外在主義は正当化に使われる要素の幾つかは主体の認識的視野の外側にあることができるという見解である。知識に関する内在主義では正当化された真なる信念が知識であるためには主体はその信念が正当化されることを知るか、少なくとも正しく信じることが必要であるとされる。知識に関する外在主義によれば、主体が知識をもつには正当化条件が成立しなければならないが、主体はその条件が成立することを知る、あるいは正しく信じる必要はない。主体は自分が知っていると考える理由をもたなくとも知ることができる。上述の信頼可能性理論は、したがって、外在主義の典型である。
 外在主義には上述の信頼可能性理論を含む信頼主義(reliabilism)の幾つかの主張がある。正当化と知識は完全に内在的であるという主張を否定するだけなのが外在主義であるのに対し、信頼主義は信念に対して知識や正当化されているという資格を与えるのはその信念を真にする事実に信頼できる結びつきがあるからだという積極的なテーゼをもっている。信頼主義が外在主義的であるのは、真なる信念を知識にする信頼可能性の関係を知っている必要がない点にある。ゴールドマン (Alvin Goldman) とドレツキ(Fred Dretske)は、ある信念が知識であるために真である以外に必要な条件はそれを真にする事実に対してある外在的な関係にあることだと論じた。外在主義(自然主義)的な関係によって、信念pが真でなければ、主体はpを信じないことが保証される。pを知るために信念は偶然的に真であってはならない。

結局、ある言明を知るのは、心的、内的にではなく、状況的、外的に行われる。