知ること(5):ヒュームの懐疑と帰納法

帰納的推論の特徴]

 私たちは帰納的な推論をよく行なう。その推論の一般的なパターンは次のようになっている。

1今まで見たAはみなBである。
2だから、次のAもBである。
3だから、すべてのAはBである。

このようなパターンをもつ帰納的推論の一例には次のようなものがある。

1私が今までに植えた朝顔の80%は花をつけた。
2だから、私がこれから植える朝顔の80%は花をつける。
3だから、私が植えるすべての朝顔の80%は花をつける。

帰納的推論の原理]
 帰納的推論は観察されたものから観察されていないものへの推論である。ここには過去の観察から未来へ、部分的な観察から全体へという二つの場合が含まれている。過去から未来への帰納的推論には次の原理が使われている。

PF:未来は過去に似ている。

この原理が正しければ、過去の観察結果から安全に未来にも観察結果を一般化できる。では、この原理自体は正しいのだろうか。この原理自体に対して帰納的に考えれば次のような推論が考えられる。

1現在までのところ、PFは真であるとわかっている。
2だから、将来においても、PFが真であることがわかる。

 上の推論は帰納的な推論である。今問題にしている帰納的推論の妥当性について帰納的推論を使って議論することは明らかに論点先取である。これがヒュームの懐疑論の出発点である。この経緯をより詳しく見てみよう。ヒュームはデカルトが疑い得ない明晰にして判明な観念を基礎に知識を考えたように、訂正不可能な感覚経験を基礎に知識を捉え、それを知識の正当化に使おうとした。ヒュームは信念についてどのように考えていたのか。因果連関についての信念は何に基礎を置いているのか。普通は理性と経験の二つが考えられる。ヒュームはまず理性を否定する。信念は二つの間の恒常的連接にだけ基づいているのではなく、以前のパターンが繰り返され、その繰り返しが一様であることにも基づいている。自然の一様性の目的を私たちはわかるのだから、理性は何の助けにもならない。経験に訴えるだけでも、自然が一様であることがわかる。だが、なぜ一様なのかについてはわからない。
[ヒュームの考え]
 既にゲチアの反例で見たように、正当化された信念と知識は同じではない。Sがpを知るなら、pは真でなければならない。しかし、Sがpの正当化された信念をもっても、pが真である必要はない。知識は誤りが不可能であることを要求するが、正当化された信念にはその必要はない。正当化された信念は誤っても構わない。したがって、知識についての懐疑論と正当化された信念についての懐疑論は異なり、知識についての懐疑論は合理的信念についての懐疑論を含意しないことになる。 知識を疑うことは私たちが世界について部分的にしか知識をもてないということであって、世界についての私たちの信念が合理的で、十分正当化できるものであることを否定するものではない。では、私たちは合理的信念をもつことができるのだろうか。ヒュームは未来の事柄や一般的な事柄について私たちがもつ信念は合理的に正当化できないと考えた。というのも、そのような事柄についての信念は帰納的に得られたものであり、そこで使われる帰納法が正当化できないからである。私たちは単に明日また太陽が昇ることを知らないだけではなく、未来についてもつどのような期待に関しても合理的な正当化の仕方をもてない。では、帰納法はどのようなもので、帰納的に信念を得るとはどのようにしてなのか。
 予測や一般化について合理的に信じるには、それら信念についての多くの証拠があればよいと考えられている。次の論証は演繹的ではないが、完全に信頼できるものと考えられている。

(一般化)
私は多くのエメラルドを見てきたが、それらはことごとく緑色だった。
よって、すべてのエメラルドは緑色である。

(予測)
私は多くのエメラルドを見てきたが、それらはことごとく緑色だった。
よって、次に私が見るエメラルドも緑色である。

 しかし、ヒュームによれば、このような確信は合理的に正当化できない。予測や一般化によって得られる信念は合理的に正当化することができない。常識的な確信に思えるのは私たちの習慣に過ぎない。それは人間の本性であり、私たちが実際に振る舞う仕方に過ぎない。そして、私たちはこの心の習慣を合理的に正当化する論証を知らない。これがヒュームの結論である。では、ヒュームはどのようにこの結論を論証したのか。

帰納法は合理的に正当化できないことのヒュームの論証]
 ヒュームは、上の一般化や予測の論証例では前提から結論が得られないので、結論を得るためには新たな前提が必要であると考える。彼が考えた原理は自然の一様性原理(Principle of the Uniformity of Nature (PUN))である。それは、未来は過去に似ている(PF)、という主張と同じである。彼によれば、帰納法を使った論証はみなこの原理を仮定しなければならない。では、この原理は正しいだろうか?

(ヒュームの懐疑的論証)
(1)すべての帰納的な論証はその前提としてPUN を必要とする。
(2)帰納的論証の結論が前提によって合理的に正当化されるならば、それら前提も合理的に正当化されていなければならない。
(3)したがって、帰納的論証の結論が正当化されるなら、PUNに対する合理的な正当化がなければならない。
(4)PUNが合理的に正当化されるなら、そのための論証は正しい帰納的論証か正しい演繹的論証でなければならない。
(5)PUNに対する正しい帰納的論証はない。というのも、そのような論証はみな循環するからである。
(6)PUNに対する正しい演繹的な論証もない。というのも、PUNはアプリオリに真ではなく、私たちの観察から演繹的に得られるのでもないからである。
したがって、PUNは合理的に正当化されない。
(7)それゆえ、予測や一般化の形をした信念は合理的に正当化されない

この見事な論証は正しいだろうか。(4)–(6)を詳しく見てみよう。自然の一様性とは未来は過去に似ているという主張である。これは帰納法に基づいて真であると知ることができるものであろうか。もしそうなら、帰納的な論証は次のようになるだろう。

自然は私の過去の観察において一様だった。
だから、自然は一般に一様である。

この論証は帰納的であり、ヒュームによればすべての帰納的な論証はPUNを前提としてもつから、この論証は循環することになる。結論として証明したい当の命題を前提として仮定してしまっているからである。では、PUNの演繹的な正当化はできるだろうか。ヒュームの答えはノーである。上の論証は演繹的に妥当ではない。

[ヒュームの懐疑論は論駁できるか]
 帰納的な論証にはPUNが用いられなければならない。では、PUNは正確に何を意味しているのか。PFの形で考えると、次の二つに解釈できる。

未来はあらゆる点で過去に似ている。
未来はある点で過去に似ている。

上のいずれがPUNの意味なのか。PUNの正確な特徴づけは困難である。これはヒュームの論証の再定式化を示唆している。エメラルドの場合について、次の二つの言明を比較して、どちらの信頼度が高いか見てみよう。

(1)すべてのエメラルドは緑色である。
(2)2050年まではすべてのエメラルドは緑色であり、それ以後は青色である。

いずれの言明がより信頼度が高いかを言うためには、エメラルドについての私たちの知識だけでなく、2050年の地球の状態についての知識や「エメラルド」の意味が必要になってくる。どのような知識が(1)と(2)のいずれかを真とするかは哲学者が安楽椅子で考えても結論が出てこないだろう。哲学にとっての問題はいずれかを真と決定するような知識とそれを使っての決定の手続きをどのように正当化するかである。ほとんどの人は(2)より(1)の方が正しいと思うだろう。すると、哲学の役割は(1)の妥当性が(2)のそれより高いことの正当化ということになる。
 ヒュームの論証を再構成してみよう。

・合理的に帰納法を正当化するには帰納法が信頼できることを示さなければならない。
帰納法が信頼できることを示すには、それを帰納的にか、あるいは演繹的に論証しなければならない。.
帰納的な論証によって帰納法が信頼できることを示すことはできない。それは論点先取である。.
帰納法が過去に信頼できたという前提から帰納法が信頼できることを演繹することはできない。
よって、帰納法は合理的に正当化できない。

 帰納法は過去において信頼性が高かった。それゆえ、帰納法は現在も未来も信頼性が高いだろう。この言明をどのように正当化できるだろうか。すぐに考えられるのは、100%の正当化でない仕方での正当化、つまり、確率的な経験知識の正当化である。