懐疑と懐疑論:デカルトとヒューム

 疑問を持ち、それに答えようとするのは健全そのもので、どこにも異常はない。だが、懐疑論が唱えられると、人はそれに反対し、何とか懐疑論を克服しようとする。ヒュームの懐疑論の超克がカントの認識論の動機だとさえ言われてきた。
 懐疑を一つ一つ丹念に解決し、信頼できる知識を増やすことができれば、懐疑論の克服など考える必要はないと思えるのだが、多くの哲学者たちはそのことに執拗に関わってきた。克服の手立ての一つが基礎付け主義だった。デカルトもヒュームも基礎づけ主義的な観点から信頼できる知識を確立しようと試みた。二人の試みの結末は正反対で、デカルト懐疑論を克服できると考えたが、ヒュームは懐疑論から逃れられないと結論した。
 では、二人の結果の違いはどこから生まれたのだろうか。それをこれからわかり易く捉え直してみよう。二人の基礎付け主義は同じように基礎づけ主義と呼ばれながら、その内容は全く異なっていた。では、二人の違いは一体どこにあったのだろうか。

<世界の出来事や情報についての知覚や意識の三つのレベル>
レベル1:疑い得ない知覚の内容
 今私は日の出を見ているようである。
 私は今、私が観察した日にはいつも太陽が昇っていたことを想い出しているようである。
レベル2:現在と過去の観察記録
 太陽が今昇っている。
 私が観察した日にはいつも太陽が昇っていた。
レベル3:予測と一般化の言明
 太陽は明日も昇るだろう。
 太陽はいつも昇る。

 ヒュームもデカルトも紛うことなき基礎付け主義者である。その理由は、二人とも、もし信念が合理的に正当化される(知られる)なら、それはより低いレベルの事柄に基づいてのみ正当化される(知られる)、と考えたからである。上のレベル1、2、3は異なるレベルを表わしている。二人の主張を要約すると次のようになる。

ヒューム:レベル3の信念が正当化されるのであれば、それはレベル2の事柄だけを基礎にして正当化されなければならない。
デカルト:レベル2の信念が正当化されるのであれば、それはレベル1の事柄だけを基礎にして正当化されなければならない。

まず、これらの表現が共に条件法であることに注目すべきである。彼らは問題になっている信念が実際に正当化されると主張しているのではない。正当化のために何が真でなければならないかを主張しているのである。
 デカルトとヒュームの結論はまったく正反対である。デカルトはレベル1に基づいてレベル2の信念が正当化できると考えたが、ヒュームはレベル3の信念がレベル2からは正当化できないと結論した。二人の間では各レベルを結びつけるものも、次のように違っていた。

神の存在と神は欺かないこと(デカルト
自然の一様性原理(ヒューム)

デカルトはレベル1の知覚内容がレベル2の信念を生み出し、それが神によって保証されるとしたが、ヒュームはレベル2の個別の観察から一般的な信念は得られないのは自然の一様性原理が成り立たないからだと考えた。もし合理的な正当化が演繹的になされる必要があるのであれば、ヒュームの懐疑主義は正しく、デカルトは誤っている。

 デカルトはすべてを疑うと仮定し、疑い得ないコギトを見出し、それと神の助けによって懐疑論を超克した。一方、ヒュームは経験的なデータからの一般化に疑いを持ち、その疑いから抜け出ることはできないと懐疑論を主張することになった。神の助けなしに、自前で懐疑論を克服することがその後の哲学の課題となったのだが、これは歴史的な経緯の中での出来事に過ぎなく、それが哲学の真っ当な課題かどうかは意見が分かれる。
 私は懐疑論の主張に懐疑的になるだけで充分だと思っている。哲学の主張は懐疑的に受け取り、暫定的に真だと仮定するだけでよい。つまり、科学と同じ態度でいいのである。基礎付ける必要などなく、経験的なテストに合格すれば、それで十分。寡黙でつつましく真理を呟けばいいのであって、声高に主張するのは真理には似つかわしくない。
 数学的な言明はどのレベルにも属さないし、レベル1の所与のデータをどのように表現するか、自然の一様性や神の誠実さが自然法則とどのように関わっているのか、いずれも疑えばいくらでも疑える事柄である。
 五里霧中の中で試行錯誤を繰り返すことによって、辛うじて一つか二つの真理を手に入れる。多くの努力は報われず、無駄の山の中でもがくしかない。それでも、何かが手に入る。これがデカルトともヒュームとも違う立場なのである。あるものは基礎づけ主義的に正当化できるが、別のものは別の仕方で正当化される、あるいは正当化できないような信念もある、それで何が不都合なのか。この消極的な主張は、哲学の基礎付け主義に対してはとても強い否定になっている。
 それゆえ、大いに疑うべしだが、懐疑論に堕ちる必要はない。懐疑論さえ疑いながら、基礎付け主義などに頼らず、疑いの海の中で僅かでも真理を掬い取っていこう、ということになる。