指すことと知ること(指示と知識)

 指で指し示しながら、「これはXだ」と言うことを「指示(denotation, reference)」と呼んできたが、指示は知ることと何が同じで何が違うのだろうか。何も知らなくても、「これは未知のものだ」と平気で指示できる。また、不完全にしか知らなくても、「これは確かにXだ」と指示することもできる。私は今の日本の首相をほとんど知らないのだが、「この人は日本の首相か」と問われ、彼が横にいれば、彼を指示することができる。少し前にヒメリンゴの話をしたが、私が興奮しただけだったようなので、再度指示について考えを述べてみたい。
 コメの銘柄が増え出した。最近は特Aを目指して各県の新銘柄が続々と登場し、競い合っている。例えば、新潟の「新之助」や青森の「青天の霹靂」。これらは固有名詞だろうか。明らかに「新之助」や「青天の霹靂」は米粒の個体を指してはいない。強いて言えば、「新之助」や「青天の霹靂」はコメの品種を指している。だが、「新之助」や「青天の霹靂」は米粒一つを指す固有名詞ではない。広辞苑には載らないだろうが、商標登録されている点では立派に固有名詞である。
 集まりや品種を指す銘柄、品名はいわば擬似固有名詞であり、半固有名詞である。周りを見渡せば、このような固有名詞ばかりで、ただ一つの個体だけを指す「真の」固有名詞は極めて少ないことに気づく。個人、都市、山、川等のユニークな対象は、その外延が曖昧で変化している。だから、ただ一つの個体を決めるためには、特徴や性質だけでなく、規約や約定が必ず入ってくる。個人やペットも、日々変化しているため、その特定の条件を決めるには約定が不可欠となる。個人が同一人物であることを知るには、例えば身分証明、本人証明が必要で、これは社会の中の約定によってつくられる。いずれにしろ、固有名詞には約定が不可欠なのである。
 では、逆に最も一般的な、外延の広い一般名詞は何だろうか。「もの」、「対象」といった表現が思い浮かぶ。これと同程度の広さを持つのが代名詞である。「これ」、「それ」など、対象ならどれに対しても適用できる。私たちの言葉は懐が深く、一個の個物の指示から、どんな対象でも同じように指示できる代名詞まで、中間の集まりの指示を含めて融通無碍に指示できるようになっている。数式に登場する変項や変数と呼ばるxやyは正にその代名詞であり、cやeといった定項や定数は特定の対象や値を指示する固有名詞である。
 「Xとは何か」という質問に対しては、Xが一般名詞の場合、例えばヒメリンゴンの場合であれば、系統発生的な説明が答えとして用意されている。一方、Xが固有名詞の場合、個人や個体の場合で個体発生的な説明が用意されている。いずれも存在していることの原因を因果的に述べることから成り立っている。では、発生を使わない解答はあるだろうか。すぐに思いつくのは、公理からの演繹という論理的方法、言葉の意味連関からの説明という言語的方法である。
 「Xとは何か」のXは指示対象というのが相場だが、対象だけではなく状態やその変化など言明内容も含まれている。「夕焼け」や「大雨」は対象ではなく、自然の風景や状態を指示している。
 指すことと知ることは異なるものだが、日頃その違いは意識されない。指示と意味の違いがもっぱら強調されてきたが、指示と知識、指すことと知ることの違いもしっかり考えることを忘れてはならない。指示、知識、意味の三者がどのように絡み合っているのか、これはいかにも哲学的な課題に思われるが、ごった煮の話は出口なしだという過去の教訓を思い起こすべきだろう。
 経験的な知識は指示なしには成り立たない。世界や自然の対象を指示対象とすることによって研究の俎上に上がり、表現されて知識が生まれる。一方、的確に指示するためには知覚だけではなく知識が求められる。指示と知識が組み合わされることによって、「知識が使われ、役立つ」という表現が何を意味しているか見えてくる。知識を使う一歩はそれを使って対象を指示することである。孤立した対象が指示されて、知識の網に取り込まれ、他の対象や状態に関連させられていくのである。
 この関連は時には問題を引き起こす。生死をもつ対象の世代交代と一世代の経緯は直線的に重ね合わされるのが普通である。各個体発生の変化が蓄積され、それが系統発生につながるとすれば、獲得形質が遺伝することになる筈である。だが、正統的な進化論では獲得形質は遺伝しないことになっていて、変化は突然変異とその選択によって説明されてきた。これは意味連関ではなく、因果連関であり、指示、知識、因果関係の間をより精密に結び合わせる必要があることを示している。
 的確な指示には知識が不可欠であり、経験的な知識には指示が前提になる。