知ること(8):ベイズ主義

 確率とは何か。ベイズは確率を出来事に与えられるべき信念の度合と考えていたが、明確な説明はしていない。ベイズは条件付き確率の単純な場合を計算できた。だが、新しい証拠として条件付き確率をつくることによって変化する確率の過程も常に1に収束するだろうか。プライスによるヒュームに対する答えでは、ベルヌーイ試行の系列から二項分布のパラメータを推論する試みとして正確に表現されていると仮定しているが、表現の正確さは保証されていない。
 「確率とは何か」に対するラムジーの解答は、出来事が起こることに対して与えられるべき合理的な信念の度合が確率である、というものだった。異なる合理的主体は同じ出来事のシステムに対して異なる確率測度を与えることができる。さらに、同じ証拠があっても、異なる確率測度を与えることができる。二人の人は、したがって、同じ50回のコイン投げを観察して、つまり、同じ証拠のもとで、異なった確率測度を与えることができる。ラムジーは複数の合理的信念を認め、信念の度合というシステムの合理性は次の二つだけが満たされていればよいと考えた。

信念の度合の測度は確率測度の公理を満たす。
新しい証拠が得られるなら、出来事のシステムについての信念の度合の測度は証拠の上の条件付き確率に変化しなければならない。

 では、どのように信念の度合を測ればよいのか。ここで、「期待値」という概念が導入される。各結果が一定の値をもつ有限結果の行為に対して、その行為の期待値は、結果が起こる信念の度合の測度と結果の値をかけたものの総和である。期待値を使って、ラムジーは次の原理を仮定した。

どれか一つが選ばれる行為の集合が与えられると、合理的な主体は期待値の最も大きいものを選ぶ。

彼はこの仮定を満たす合理的主体の信念の度合が主体の賭けの選択から推論できることを示した。

(問)私たちはいつも合理的な主体だろうか。合理的に振舞わない場合、どのように推論したらよいのだろうか。

 二番目の問いに対する解答も肯定的である。最初の確率分布から出発し、新しい証拠によって条件付き確率をつくることで分布を変えていくという仕方を取っても、真理に収束することがわかった。条件付けによる確率の変化は真理への収束を結果する。確率論は一般的状況において、条件化によって確率を変えていくことが真理への収束を結果することを示すことができた。だが、この主張には次の制限がついている。

・初期分布がパラメータの真理値を含んだ値の集合に事前確率0を与えるなら、どのような証拠が与えられてもその集合は0のままである。

・証拠が別の仮説に対して同じ確率をもっていれば、証拠の上の条件化を行なってもこれら確率の比は変化しない。

 最初の制限は、一度誤りに陥ると、その誤りを修正することができなくなることを意味している。次のものは、二つの仮説がすべての可能な証拠に対して同じ見込みをもっているなら、証拠の上の条件付けは確率の最初の比率を変えない、ということを意味している。したがって、二つのうちのいずれか一方が正しいなら、多くの証拠の上に条件付けを行なっても真なる仮説に確率1を与えるように収束しない。これら制限から、ベイズ的な手法は形而上学的な懐疑論を論駁することはできないことが出てくる。それは懐疑論を無害にするだけである。形而上学懐疑論は正確に同じ結果をもたらす別の仮説をあえて想像するので、二つの仮説についての初期確率の比は、どんな証拠の上の条件付けをした後でも同じ結果をもたらすことになる。そのため、別の仮説の棄却はできないことになる。これは、私たちが桶の中の脳であるという懐疑論者の仮説が誤りであることを、どれほど長く証拠を集めても、学ぶことができないことを意味している。だが、それでどうだというのだろうか。それは私たちの無知に過ぎなく、それで傷つくことがあるのだろうか。

(問)ベイズ的な考え方は懐疑論を無害化するとはどのようなことか。

 ベイズ的見方では、個人は何をするか決定しなければならない主体と考えられている。個人は複数の可能な結果に対して優先的な好みをもっている。これら結果の値は伝統的に効用 (utilities) と呼ばれている。ベイズ的な見方では、個人はできるだけ期待値の高い効用をもった行為を選ばなければならない。例えば、「桶の中の脳」仮説、「他人の心否定」仮説に対して、それら仮説が論理的可能性をもつことを認め、その上で、0あるいは0に近い値を与え、期待値の効用の計算にそれら仮説を使わなかった場合と違いが生じないようにできる。これは全く合理的である。あるいは、0ではない実質的な値をそれらに与え、値の結果がなんであれ何の違いも生み出さないことを判断することもできる。この意味でベイズ的な立場は懐疑論的である。だが、その懐疑論は合理的考察や行為に対して何の違いも生み出さない。つまり無害な懐疑論である。
 ヒュームの懐疑では経験についての言明には疑いがもたれず、そのような個別的な内容をもつ言明の一般化に対して疑いがもたれた。デカルトが疑ったのは個々の経験的な言明だった。ベイズの立場はヒュームと同じであり、それゆえ、経験的な信念を更新する際、そこに登場する信念は真か偽のいずれかであった。P(A|B)をP(A)に更新できるのはP(B) = 1と判明した場合であった。
 では、デカルト的な懐疑の場合はどうだろうか。個々の経験的な言明は疑うことができるとしてみよう。さらに、真か偽か不明であるが、どの位真らしいか偽らしいかは言うことができるとしてみよう。このような場合、ベイズ条件付けとは違って、Bが真と偽の間にある場合の条件付けを考え、不確かな信念による更新を形式化したのがジェフリー(Richard Jeffrey)である。
 薄暗いロウソクの炎の下で、布の色について、それが青色か緑色か黄色かの判断をしなければならない場合、私たちには確定したことが言えない。もっと明るい光の下で判断することが許されるなら確定した答えを言うことができるが、それが許されない場合はどうすべきだろうか。私たちは不確定な信念に基づいて判断し、その判断を使って、例えば、布の用途を考えなければならないだろう。
 ヒュームの場合、デカルトの場合、いずれの場合もベイズ的な立場からその懐疑論を無害化できると述べた。疑っているデカルトやヒュームが何を述べようと、それとは独立に賭けの損得が計算できるように、懐疑とは独立に信念の度合が推測できるのである。ある信念が懐疑の対象となるならないにかかわらず、その信念の度合が推測できる。
 三番目は形式論理を使って信念内容を正確に表現し、文に信念の度合を付与して考えれば、そのような文の集合は確率の公理を満たしてくれる。
 この再定式化は一定の条件のもとでではあるが、見事にヒュームの懐疑に対する解答になっている。しかし、ベイズ的な扱いにも様々な問題があり、それらを巡って現在でも活発な議論が続いている。