別のタイプの知識の正当化:カントの場合

[経験の構成]
 ものを見たとき、視覚器官である眼に起きていることと眼が何を見ているかの間には根本的な違いがある。カントはこの違いから、事物が見えるのは、私たちが見ているからであると考えた。そこから、私たちが経験している世界は私たちの精神(=心)によってつくりだされたものであり、現象をつくりだしている過程は自発的で、総合的なものだと考えた。世界は私たちが作り出すという考えはとてもロマンティックである。物それ自体からなる世界は、それが存在するとすれば、私たちが経験することのできない世界であり、私たちが生み出す経験世界とは異なっているということになる。
 私たちの経験には一定の形式があり、それがカテゴリーと呼ばれるものである。大半の場合、感覚的な入力から経験世界をつくりだすことは自動的である。それは私たちの意志によってではなく、精神によってなされる。カントの主な関心は私たちの精神による、科学的ではない経験世界の構成であった。では、私たちの精神は感覚的な入力からどのように世界をつくりだすのか。この問いは認知科学者が現在研究していることそのものである。18世紀にはカントばかりか他のどんな人も、そのような実証的研究が精神に対して可能であるとは考えていなかった。だから、カントは精神の働きについて実証的な研究を示唆するようなことは述べていない。その代わり、彼は経験が可能であるために必要な条件を演繹しようとした。カントはそのような論証を「超越論的」と呼んでいる。
 カントはヒュームの懐疑論を論駁しようとしたが、それはすべての出来事には原因があり、原因と結果の系列は一般法則を満たさなければならないという原理を使って行われた。したがって,カントはどんな経験に対しても帰納的な推論が信頼できるものであることを示したと考えた。
 カントが疑ったのは、世界それ自体がどのようなものかという知識をもてるかということだった。というのも、私たちの精神によって構成された経験的世界についての知識は世界それ自体については何も述べていないからである。カントの哲学には二つの異なった主張が含まれている。

観念論:経験世界は精神によって構成され、経験世界の諸性質はこの構成の産物である。
超越論的論証:経験が可能であるための必要条件は経験の一般的性質から演繹的推論によって確立することができる。

カントの目標は幾何学と運動の法則をアプリオリな基礎の上に置き、ヒュームの帰納的な懐疑論の問題を解くことであった。彼の戦略は、ユークリッド幾何学ニュートンの運動の法則、そして帰納的推論が信頼できるような仕方のもとで、精神によって構成される対象、性質、関係のシステムとして世界を見ることであった。カントはユークリッド幾何学が真である、あるいはそれが感覚データの上に精神によって与えられる、ということを直接論証していない。彼は経験世界の空間がユークリッド的であることを仮定し、さらに、それが必然的に真であり、それが真であることを私たちは知ることができると仮定する。ユークリッド的な関係が私たちの経験を総合する形式であるなら、すべての可能な経験はユークリッド幾何学を満たさなければならず、私たちはその正しさについて確信をもつことができることになる。感覚データから経験をつくりだす際、心の働きによって空間的な表象がユークリッド幾何学を満足することを保証するという仮説は、なぜ空間がユークリッド的かを説明するだろうが、ユークリッド幾何学が真であるという確実さは説明しないだろう。

(問)カントにしたがうなら、非ユークリッド幾何学はどのように考えればよいだろうか。

 繰り返しになるが、カントは経験の対象が構成され、総合されたものであると考えた。世界は私たちによる構成的システムである。しかし、彼はそれが何から構成され、どのように構成がなされるかといった細部については極めて曖昧である。そこで、ラッセルは次のように考えた。基本的対象(=センスデータ)の間を動く変項とセンスデータの性質を指示する述語によって、センスデータの集合を指示する名辞を定義できる。物理的な対象はセンスデータの集合であり、あるいは、センスデータの集合の集合であり、等々と続く。物理的対象の高次の性質も適切なセンスデータの集合である。(Our Knowledge of the External World
 カルナップ(Rudolf Carnap)の『世界の論理的構築(Der logische Aufbau der Welt)』では、世界の諸性質が単純な経験データから心によって構成される手続きの詳細で明確な記述が与えられている。世界の論理的な構成は基本的経験を指示する名辞に適用される論理式の集まりとしてだけ示されているのではない。彼は構成を計算上の手続きとしても述べている。これはカントの計画と認知科学の間の論理的な橋渡しになっている。カルナップは心の理論を計算的なプログラムとして提示したのである。つまり、人工知能の研究はカルナップの構想の具体化である。
[総合的:分析的とアプリオリ:アポステリオリ]
 大半の信念は世界の経験に訴えることによって正当化されるが、幾つかの信念は知覚に訴えない仕方で正当化されると考える哲学者がいる。その幾つかの信念は理性あるいは純粋な思考だけによって正当化される。このような仕方で正当化される信念は「アプリオリに」正当化されると言われ、経験的に正当化される信念は「アポステリオリに」正当化されると言われる。アプリオリな知識は経験に先立つが、これは論理的に先立つのであって、時間的に先立つのではない。.
 カントは「アプリオリであることは必然的であることだ」と考えた。つまり、Pをアプリオリに知ることができるなら、Pは必然的に真(すべての可能な世界で真)でなければならない。偶然的な命題はある可能な世界で真になるが、別の可能な世界では偽になる命題である。必然的な命題の中にカントが分析的に真と呼ぶ命題がある。総合的な命題は分析的でなく、その命題に現れる名辞の意味からは真であることが論理的に導出できない命題である。カントの『純粋理性批判』の主要な関心の一つは、分析的命題だけでなく、総合的命題についてもアプリオリな知識がどのようにして可能なのかを示すことであった。
クリプキの批判]
 クリプキ(Saul A. Kripke)によれば、 偶然的に真である命題の中にはアプリオリに知ることができるものがある。また、必然的に真である命題のなかにはアポステリオリに知ることができるものがある。アプリオリに知ることができ、偶然的に真である例は「パリにある標準メートル原基は1メートルである」という命題である。パリの標準メートル原基は「1メートル」という語の指示を定めるために用いられるので、私たちはこのメートル原基が1メートルであるとアプリオリに知ることができる。それは定義である。しかし、この命題は偶然的である。というのも、標準メートル原基が熱せられ、その長さを変えてしまうような可能世界があるからである。アポステリオリにだけ知ることができるが、必然的に真であるものの例は、固有名詞を含んだ真なる同一性命題である。「明けの明星=宵の明星」はそのような命題である。この命題は必然的に真である。というのも、「明けの明星」という名前で指示するものが「宵の明星」という名前で指示するものと同一でない世界は存在しないからである。一方、「明けの明星」や「宵の明星」は経験的に(つまり、アポステオリに)しか学べない語である。このように、カントが考えた分類はクリプキによって書き換えられることになった。

(問)アプリオリと必然性の違いを説明せよ。

 カントの認識論については既に幾つも批判がある。それら批判にもかかわらず、彼が残した遺産は認知科学へと引き継がれている。私たちの認知、認識がどのようになされるかはその仕組みの解明が先である。カントの認識論はその先鞭となっている。