心(2)

心身関係あるいは心の哲学の歴史
  『イリアス』と『オデッセイア』に見られる心の見方の違い、デカルト以前と以後の心の見方の違い、これら二つの前後では心に対する考えの大きな変化と進展がある。それは心の捉え方の進化と呼ぶに相応しい。心の捉え方の進化に応じて、世界観の変化と同じように精神観の変化も起きた。特に強調したいのはデカルト以後の心に対する取扱いである。

デカルト心の哲学の出発点)
デカルトの推論の誤り]
 心と身体はそれぞれ何であり、どのような関係にあるのか。この問いに対して「心と身体は世界の二つの異なる実体であり、それらの間には因果的な相互作用がある」というのがデカルトの解答=主張である。このデカルトの伝統的な主張は今でも私たちの日常生活で常識となっている。憂鬱になれば、身体活動は鈍る。病気になれば、心が暗くなる。このような心身の密接な結びつきを前提にして私たちは毎日を過ごしている。このような伝統的態度とは違って、20世紀に展開された心についての諸説の特徴は圧倒的に反デカルト的である。デカルト的な解答は自然主義的な解答ではないこと、20世紀の諸説は自然主義的であること、この二つから自ずと20世紀に展開された諸説の大半は反デカルト的ということになる。まず、デカルトの主張を既に見た推論の形で批判的に吟味してみよう。

デカルトは自分が心をもつことを疑うことができない。 
デカルトは自分が脳を持つことを疑うことができる。
それゆえ、心と脳は別のものである。

「心をもつことを疑うことはできないが、身体をもつことは疑うことができる」とデカルトは考える。そこから、心と身体が異なることをライプニッツの不可識別者同一の法則(AとBが同一とは、Aのもつ性質はみなBのもつ性質であり、その逆も成立する)から導き出す。ここで次のような例を通じて上の議論がある誤りを含んでいることを見てみよう。その誤りはフレーゲの意味論的な指示(reference)と意味(sense)の違いに関係していて、「命題的態度」と「志向性」という概念を通じて考えられてきたものである。

 太郎は明けの明星を観察したい。  
   太郎は金星を観察したくない。

ここにライプニッツの法則を適用するなら、太郎が観察したいという性質は明けの明星にはあるが、金星にはないことから、明けの明星と金星は異なるものとなる。無論、これは誤っている。「明けの明星」と「金星」は同じ対象を指している。

 太郎は明けの明星を観察する。  
   太郎は金星を観察する。

上の文では明けの明星と金星は同じものである。これは、太郎が明けの明星を観察したい、金星を観察したくないという事実と何ら矛盾しない。同様に、

 私は脳をもっている。  
   私は心をもっている。

という二つの文について、一方を疑うことができ、他方は疑うことができないということだけから、脳と心が異なる性質をもち、異なる対象であるということは結論できない。
 「疑う」や「望む」は命題(言明、文と基本的に同じ)に対する私たちの心的な態度である。たとえある命題が疑われ、他の命題が疑われなくても、最初の命題が述べているものと二番目の命題が述べているものが異なるということは導かれない。「私が脳をもっている」と「私が心をもっている」が異なった命題であって、一方は疑うことができ、他方は疑うことができないとしても、そこから脳と心が異なるということは結論できない。したがって、デカルトの論証は誤っていたということになる。デカルトの論証から、心と脳は異なるという結論は出てこない。しかし、このことから心と脳が同じであることも、心身間に相互作用がないことも証明されたのではないことに注意してほしい。

 デカルトは上述の論証以外にも複数の論証、理由を挙げて、心身の二元論を展開している。デカルト以後、心身関係や心の構造について多くの試みがなされてきた。その中には実に優れた考察が数多く含まれている。とはいえ、組織的に心を研究し出したのは20世紀に入ってからである。そこで、歴史には忠実でないが、20世紀の組織的な研究の追及に話を移そう。その代表が行動主義である。
<論理的(分析的)行動主義>
[心はどこにもない]
 哲学的あるいは論理的な行動主義 (Philosophical behaviorism, or Logical behaviorism) は心理的な用語は意味を損ねることなく行動の用語に翻訳することができるという見解である。ライル(Gilbert Ryle)はデカルト心身二元論を批判し、それを「機械の中の幽霊ドグマ (the ghost in the machine dogma)」と表現する。観察できる出来事が身体と不可分に結びついているように、内的な出来事は心と不可分に結びついている。この主張は誤っているというのが彼の考えである。というのも、心的用語は人が行動する仕方に言及しているのであり、内的な心的状態に言及しているのではないからである。これは心理主義への強い反撥である。この反撥は、次の論証に明確に表われている。

心的状態が行動の内的な原因であるとすれば、それを見ることができないため、私たちは他人の心的状態についての知識をもてないだろう。
ところが、私たちは他人の心的状態についての知識をもつ。
それゆえ、心的状態は行動の内的原因ではない。

自然主義的誤謬]
 ライルの二番目の反対は自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)あるいはカテゴリーミステイクと呼ばれるものである。「デカルトは心をもっている」、「デカルトは身体をもっている」はそれぞれまっとうな命題であるが、「デカルトは心と身体をもっている」という命題はライルによれば許されない。心と身体は別のカテゴリーに属するからである。これはほとんど二元論の否定と言ってもよい。このライルの主張は正しいだろうか。

(1)デカルトは心をもち、脳をもつが、それら二つは異なる。
(2)デカルトは心をもち、脳をもつが、それらは同一である。
(3)人が心をもつのは正しく、人が脳をもつのも正しいが、心が脳の上に存在するものであると考えるのは誤りである。

これら三つの命題はそれぞれ(1)が二元論、(2)が同一説、(3)が行動主義の主張を表している。これらは言語の規則に反しているだろうか。反してはいない。それどころか、三つの命題はいずれも有意味な主張である。また、ライルは傾向性(disposition)を使って心的状態や性質を分析しようとするが、傾向性で状態を置き換えることはできない。痛みの行動がなくても痛みは存在可能である。(デネットは次のような例を挙げている。手術中に体の自由を奪う麻酔と、その記憶を手術後喪失させる薬を併用した場合、それは通常の麻酔と同じ効果をもつだろうか。通常の麻酔なら痛みはないが、この場合はどうか。)
 論理的な行動主義は哲学的な主張に基づく徹底した行動主義である。そこには哲学的な主張の素朴なまでの徹底さが見られる。