心(1)への補足

 科学主義と人文主義の際立った峻別はこれまで人文主義の擁護者によってなされてきた。科学主義者は科学には敏感でも、人文主義には鈍感で、大した関心を示してこなかった。人文主義者は自らの研究領域が冷遇されているというコンプレックスを持っていて、それが科学主義批判につながるという見方はとてもわかり易く、しかも強ち誤ってはいない。
 だから、人文主義と科学主義は根本的に異なった主張であって、人間をいずれの主張から理解するかは大問題だと受け取られ、二つの主張は両立しないと端から信じられてきた。しかし、これは錯覚に似た誤解に過ぎないのである。
 私の心は私にはよくわかる。内観によって直接心の内容を知る、感じることができる。いわば、直接知とも呼べるもので、それは文学的な表現によってしか伝達できないものである。一方、友人が何を感じ、何を考えているかは、その友人を観察し、会話し、議論することによって、外からの情報を私が処理することによって理解する。これは科学主義的な方法であり、情報伝達の仕組みに基づいている。つまり、私たちは自分の心と他人の心を異なる仕方で理解し、それら理解が同じものであることを前提に生活している。その仕組みは私だけでなく友人の場合も同じであり、内観的なわかり方と観察的なわかり方は同じ事柄を別の仕方で理解していることを意味している。
 このようなことが当たり前のこととして日常生活では前提されていて、それで大抵の場合不都合は生じない。不都合とは意思の疎通がうまく行かない、誤解が生まれると言ったことだが、それらさえも生活に刺激を与え、私たちの意思疎通の仕方を変えようという風にはなっていない。つまり、日常生活では人文主義と科学主義は両立する仕方で使われ、共通理解の両輪として働いているのである。
 それでも、外から眺めての心と内から感じる心という二分法の区別が日常生活では常識になっている。この二分法の常識がデカルトの遺産であり、そこにメスを入れることが二つの区別を調停するより重要であることを忘れてはならない。