心(3)

 前回述べた論理的な行動主義は哲学的な主張に基づく徹底した行動主義である。そこには哲学的な主張の素朴で、頑なな徹底さが見られる。

<方法的行動主義>
[心は研究対象にならない]
 デカルト的な二元論によれば心は非物理的(延長をもっていないの)で、第三者には観察できない。それゆえ、心理学は経験科学としては成立不可能である。経験科学として成立するには、刺激、条件付け、反応といった観察可能なものにだけ言及する行動の理論として心理学を確立しなければならない。このように主張する方法的行動主義 (Methodological behaviorism) は、心理学がどのように研究されるべきかについての主張、つまり、科学方法論の主張である。まず、この点が論理的行動主義と異なる。論理的行動主義は、信念や欲求が行動を引き起こす心的状態であることを否定するが、方法的行動主義は心理主義的な用語が内的状態を指示することを否定しない。しかし、信念や欲求が外側からは観察できない内的状態ゆえに、それらについて心理学的に語ることは方法論上否定される。
[スキナーの主張とチョムスキーの批判]
 方法的行動主義の否定的なテーゼは、心理学は信念、欲求を使った説明を避けるべきであるというものである。この主張はスキナー(Burrhus F. Skinner)に代表されるが、心理主義的な説明に対する彼の反対理由の一つは、信念や欲求は観察できないというものである。それらは隠れている。二つ目の理由は説明が余りに容易過ぎるというもので、それらを仮定することで観察結果に合う信念や欲求の話を作り上げることができてしまうからである。つまり、信念や欲求アブダクションで勝手に導入してはならないということである。
 しかし、スキナーの行動主義はチョムスキー(Noam A. Chomsky)によって鋭く批判される。スキナーの『言語行動(Verbal Behavior)』に対するチョムスキーの書評は次のような内容であった。私たちは有限の語彙と文法規則を使って、無限に多くの異なる文をつくり、それらを理解することができる。行動主義は過去の反応と条件付けの歴史を強調するが、どのようにこの無限の内容を取り扱うか知らない。また、最初に経験する新しい内容をどのように習慣的な刺激-反応の図式で理解できるというのか。無限のもの、新しいものを行動主義は扱うことができない。この単純で明解な批判は方法的行動主義を崩壊させるのに十分過ぎるものであった。

(問)論理的行動主義と方法的行動主義の違いを心の扱いを中心に説明せよ。

<同一説>
[徹底した唯物論
 心的な性質(状態、過程)は脳の性質(状態、過程)と同じものである。つまり、どんな心的性質も物理的性質そのものである。「気体の温度は気体分子の平均運動エネルギーである」のと同じ意味で、心的な性質は脳の性質である。これが同一説の主張である。自然主義の典型である同一説には微妙に異なる主張が含まれている。代表的な説を以下に挙げてみよう。

スマート(John .J.C. Smart)の主張:しばしば脳過程(に関する)唯物論と呼ばれ、感覚は脳過程と同一であると主張する。
アームストロング(David M. Armstrong)の主張:中枢状態唯物論と呼ばれ、心的状態は中枢神経系の状態と同一であると主張する。
ファイグル(Herbert Feigl)の主張:神経生理学的な用語と心的な用語は同じものを指示すると主張する。フレーゲの意味と指示の違いから、二つの用語の意味は異なるが、指示は同一であると考える。

[経験的な同一説]
 科学が経験的であるのと同じ意味で、同一説は経験的な主張である。二元論、生気論と対比するなら、同一説は一元論であり、非生気論である。したがって、すぐに同一説の説明構図の方が二元論より単純であることがわかる。その主張は単純明快で、心と脳は同一で、その同一性の細部は経験的に確証される。その結果として、心は還元・消去され、脳の振舞いによって置き換えられることになる。脳に関する研究者が心について何か述べようとするとき、脳に関する研究は心に関する研究でもあると考えるのは、背後に同一説があると理解しやすい。しかし、認知科学の内容は必ずしも同一説の立場に立って理解する必要はない。むしろ、その主張は同一説と異なるものである。そして、それは(後述の)機能主義に基礎を置くものである。

(問)同一説が経験的であるとはどういう意味か。

*二つの同一性
 「あるものが以前のものと同じかどうか」と「あるものと別のものが同じかどうか」とは同一性に関する重要な、しかし、異なった問いである。いずれの問いも私たちの日常生活で時々顔を覗かせる。ここではこれら二つの問いの典型について考えてみよう。
(人格の同一性:ある人が以前のその人と同じとは?)
 心や身体についての異なる見方が引き起こす問題は多岐にわたっている。その一例が人格の同一性である。椅子や机が同じものか否かには比較的明瞭で、一致した基準があるが、心をもった人格の同一性の基準は曖昧である。10年前の私と現在の私が同一人物とみなされるのはどのようにしてなのか。また、一般的に時間を通じての人格の同一性は何によって決まるのか。このような問いに対する答えは椅子や机の場合に比べると簡単ではない。その理由は何か。通常、椅子や机の同一性はそれらの物理的な連続性(physical continuity)が基準になっている。しかし、私たちは心をもっているので、さらに心的な同一性も必要になる。そして、これにはものの場合に対応して心理的な連続性(psychological continuity)が基準と考えられている。ここまで述べてくると、人格の同一性は心身二元論が前提になっていることに気づくだろう。身体と心の両方の同一性が必要という話が不自然に聞こえないのは、私たちがデカルトの伝統の中に生きていることの証でもある。
 では、心理的な連続性とは何か。昨日のことを思い出す人は今日のその人と心理的に連続している、つまりは記憶の連続性が心理的な連続性と考えられている。このような答えは一見すると確実に見えるが、実は多くの疑問をすぐに引き起こす。例えば、意識を失い記憶喪失に陥った人でも、覚醒したとき「私は誰か」と自問できるが、そのときの「私」は誰なのか。「私」は頼るべき記憶を失っている。余りに多くの疑問のため、大抵は人格の同一性に到達する遥か前に追求を放棄してしまうことになる。次のような状況でどのように同一性が言えるか考えて見てほしい。

・船の外板:船を造っている板を一枚ずつ取り替えて、すべての板を新しいものにしたとする。修理された船は以前の古い板の船と同じと言えるだろうか。また、古い板を集めて同じ型の船を再現したときの船は以前の船と同一であろうか。
・脳移植:ある人の脳を別の人に移植したとき、移植された人は誰と同一なのか。また、脳を半分移植した場合はどうなるか。
・複製:ある人の複製をつくったとき、その人と複製のいずれが以前の人と同一なのか。

このような思考実験によってわかるのは、私たちの同一性についての基準が物理的な連続性と心理的な連続性の組み合わせの規約に基づいてきたことである。全く完璧な規約はないが、だからといって規約がないというわけではない。

[同一説:心が脳と同じかどうか?]
 心的性質(状態、過程)は脳の性質(状態、過程)と同じというのが同一説の主張だった。「痛み」と「C-線維の興奮」は同義語ではないが、にもかかわらず同じ性質を指示する。痛い状態にあるという性質とC-線維が興奮している状態にあるという性質は同一である。
ライプニッツの法則は「二つのものが同一なら、それらがもつ性質もすべて同じである」ことを述べているが、この法則から、心的出来事と脳の活動は異なる性質をもつため、それらは同一でないという同一説批判が出てくる。別の同一説批判によると、心的記述と物理的記述は空間的な局所性、客観的観察可能性、志向性という三つの点で異なっている。空間的な局所性による批判を見てみよう。

(空間的な局所性を使った推論)
脳過程は空間的出来事である。
感覚は空間的ではない
同一性の法則は一方について正しいものは他方についても正しいと主張する。
それゆえ、二つのものは同一ではない。

客観的観察可能性に関しても類似の批判的な推論を展開できる。脳過程は観察可能であるが、経験する感覚はそうではない。また、志向性は心的状態に適用されるが、脳の活動には適用されない。