心(5)

付随性(Supervenience)の諸相
 心的状態が脳状態に付随する(Mental states supervene on brain states.)とは、二人の脳状態に違いがない限り、心的状態にも違いはないということである。「二人が同じ脳状態にあれば、二人の心的状態も同じである」というのが「心的状態が脳状態に付随する」ということである。付随性概念は心にだけ特有の概念ではなく、物理的、生物的な性質や特徴についても考えることができる。
 そこで、付随性を物体の加速度、速度、位置の関係を使って考えてみよう。物体はその速度を変えることなく、加速度を変えることができないし、その位置を変えることなく、速度を変えることができない。だから、物体の加速度はその速度についての事実に付随し、物体の速度はその位置についての事実に付随する。これから、加速度が位置についての事実に付随することになる。これは付随性が推移的、つまり、AがBに付随し、BがCに付随すれば、AはCに付随することを示している。また、加速度は速度に付随するが、速度と同じではないことから、付随する性質は付随させる性質と同じではないこともわかる。
 別の例に生存力がある。AとBの生物個体のいずれがより生存力が強いかと問われても、何か特定の生物的な性質を挙げることができない。現実の生活では体力がいくらあっても、交通事故に遭わないとは限らないからである。特定状況では特定の生物的性質が生存力を実現しているが、AやBの一生を通じての生存力はそれらの一生に付随している。この特徴が心の哲学に使われ、心的な性質は物理的な性質と同じではないが、物理的な性質によって決められるという物理主義の主張を支えることになる。
 心の哲学での付随性は次のテーゼとして使われる。

(付随性テーゼ)
心的な性質は物理的性質に付随する。

このテーゼは次の三つの特徴をもっている。

(1)どんな二つの対象も、その物理的な性質が同じならば、その心的性質も同じである。
(2)一つの対象がその物理的性質を変えることなく、心的な性質を変えることはできない。
(3)ある時刻tに一つの対象が心的性質の異なる部分クラスを二つもっていたら、その対象は物理的性質の異なる二つのクラスをもっている。

 付随性は二つの異なる側面をもっている。一つは自然主義の拡張の裏付けとして、他は還元に代わる関係として考えられている。それらを順次見てみよう。
 私たちは既に自然主義について考えた。自然主義への批判も多い。科学嫌いな人が私たちの心までも科学的に理解すべきだと言われたら、その人が嫌悪感をもつのは明らかであろう。このような科学嫌いではないにしても、心の能力、人間の行為の理由、倫理や道徳を考えたとき、相当多くの人がそれらが自然化できるものではない、あるいは自然化されるべきではないと思うのではないか。あるいは、科学は実在する世界の記述や説明を与えてくれるのではなく、歴史や文化に相対的なものであり、私たちの世界観に依存したものであるから、心を科学的に考えることは単なる一つの立場に過ぎないと考える哲学者も多い。ほとんどの自然主義批判は次の自然(物理)主義の主張に対しての批判である。

(十分な説明のテーゼ)
心的状態の説明は物理的状態の説明によってなされる。

このテーゼから心的状態は物理的状態であるという結論が導き出される。例えば、痛みは最終的に物理学によって記述・説明される。その意味で痛みは物理的である。例えば、ローティ(Richard Rorty)は伝統的な哲学が消え、哲学の役割の一部は科学が引き継ぐと考えるが、経験的な結果が哲学の問題にいつも答えてくれるわけではなく、科学以外のものが場合によっては問題に適切に答えてくれると主張する。また、パトナムは科学が真理の唯一の供給者であることを否定し、科学的な合理性は相対的なものに過ぎないと考える。ネーゲル(Thomas Nagel)は科学理論の説明上の十分さを否定する。物理学が十分な説明を与える点に関して、例えば、マッギン(Colin McGinn)は心的なものは物理的なものであると考えるが、私たちには心的なものと物理的なものの間の関係を理解することができないと主張する。これらの哲学的な批判の他に、心を自然主義的に理解することへの宗教的、倫理的な批判も数多く存在する。
 このような批判に対して、物理主義や自然主義を柔軟に理解する術はないのだろうか。以下にそのような一例を考えてみよう。生物が環境にどの程度適応しているかを示す適応度(fitness)という性質や私たちの心の様々な性質は物理的なものではないように見える。しかし、一方で適応度や心的な性質や状態は物理的なもの(生物や環境、脳)がないならば存在しないように思われる。物理的なものを必要とするが、それ自体は物理的とは呼べないようなものは私たちの周りに溢れている。その適例が情報である。とりわけ、心の状態や性質は情報とも関係して、そのような代表例である。では、すべての対象は物理的なものであるという物理主義は情報、そして適応度や心の性質に関して成立しないのであろうか。
 ここで付随性という考えを利用しよう。対象の性質の集合Qがその対象の別の性質の集合Pを決定し、逆は成立しないとき、PはQに付随する。つまり、PがQに付随すれば、PとQの間には1対多の関係がある。例えば、同じ部屋の多くの温度計が室温20度を示しているとき、それら温度計は同じ情報をもっている。しかし、ものとしての温度計はみな異なっている。室温20度は異なる温度計によって表示されているにもかかわらず、同じ情報を表している。これと同じように、適応度はその生物と環境の物理的な性質に付随し、心のある性質は脳の物理的な性質に付随することになる。これをさらに一般化すれば、物理学以外の科学で扱われるすべての性質は物理的な性質に付随するということになる。この付随性を使って物理主義、さらには唯物論の主張を明確にしてみよう。「すべての対象は物理的な対象である」という主張は何を意味しているのか。ある対象が物理的であるとはその対象のある性質が物理的というのではない。その対象が魂や生命力をもっていても、その対象は他に質量や温度をもつことができる。また、その対象のすべての性質が物理的な性質というのでもない。実際、適応度や心の性質は物理的ではない。このような状況を損なうことなく、物理主義と物理的でない性質を整合的に扱う際に付随性は役に立つ。「ある対象は物理的である」は、付随性を使って言い直すと、「ある対象が物理的であるとは、その対象のすべての性質について、それが物理的でなければ、その対象の物理的な性質に付随する」ということになる。
 付随する性質を研究するのは科学であり、したがって、科学は物理的でない性質を研究できることになる。このような拡張は付随する性質はどのような性質かという哲学的議論を巻き起こすことになる。実際、付随する性質は因果的な原因にはなれない。因果的な効力をもたない性質は科学では何の役割ももっていないのだろうか。そのようなことはない。因果的に無力であっても、説明に関しては効力をもっている。情報、適応度、心的性質といった付随的な性質は科学的な説明では物理的な性質と同程度の効力をもっている。科学的な説明は因果的な過程の記述以外のものも含んでいる。
 次は、還元と付随性の関係を考えてみよう。ここで付随性に対する批判的な考察をしておこう。次のような例から考えてみよう。

1 aはbの上にある。 2 aはbのとなりにある。 3 aはbに頼っている。

1について、aはbの上にあると同時に、bがaの上にあることはできないという意味で、「の上にある」という関係は非対称的である。しかし、時点tでaがbの上にあり、時点t’ではbがaの上にあることは可能である。これに対して2の対称性はいつでも成立する。その理由は「となり」という関係の定義からである。3は1と2に比べると微妙である。aがbに頼っていることはbがaに頼っていることを排除しない。実際に頼っていないかもしれないが、少なくとも排除はしていない。つまり、対称的か非対称的かの判定が3だけを見たのでは言えないのである。「頼っている」の内容がどのようなものかに依存するとはいえ、3が付随性の関係に近いものである。
 上の例を通じて、基本的な付随性を考えるとどうなるか。

「状態aが状態bにある時点で付随する」

これが最も単純な付随的な関係である。「心の状態はいつの時点でも脳の状態に付随し、脳の状態はいつの時点でも心の状態に依存する」という表現は心脳の相互付随関係論ということになるが、このような関係は成立していそうもない。あるいは、「心の状態はいつの時点でも脳の状態に付随する」という表現は心の随伴現象論(epiphenomenalism)の主張であると考えられがちであるが、これは上の付随性の説明から、脳が心に付随することを排除していないため、誤っている。また、付随関係の代わりに相互作用を想定するなら、心身の相互作用論が最初の表現から得られるが、これもありそうにない。状態aや状態bの定義される領域は異なっており、したがって、それら領域の扱いは時点に関しても一様にはいかないからである。これは次のような具体的な場面を考えれば明らかであろう。
 「ある時点」をある瞬間と考えたとき、瞬間の心の状態と脳の状態と、それらの対応とはそもそもどのような状態や対応なのか。瞬間的な付随性は物理的にはほとんど意味をもたない付随性である。逆に、「2 + 3 = 5」の計算の心的状態を考えたとき、そこでは時間的な経過や区間は考慮されていない。すると、それが付随する脳の状態はどのように定めたらよいのであろうか。実際のところ、私たちには定めようがない。このような考察から明らかなように、付随性の関係は瞬間化しようとしてもうまくいかず、また区間化しようとしてもうまくいかない。したがって、付随性の使用は心脳の関係について決定的な結論を導き出さないばかりか、その使用の際には時間に関する文脈に対して十分な配慮が求められる。この結論は付随性概念が階層的に異なる領域の対象を扱う際に用いられる概念としてはそれほど信頼できるものではないことを強く示唆している。
 今まで述べてきた付随性の二つの側面は矛盾しているように思われるかもしれない。最初の話は付随性が説明のための概念として考えられており、二番目は還元に代わる記述概念として用いられている。対象を記述するには十分ではないが、説明するのは十分であるという特徴を付随性概念はもっているようである。