心(6)

認知科学とはどのような科学か
(ここに登場する認知科学は10年ほど前までの認知科学であり、最近の動向を含めた認知科学像は改めて考えなければならない。)
認知科学の基盤]
 認知科学者は情報や知識を扱う自然あるいは人工の認知過程を研究する。これはあまりに広い定義であるが、定義など気にしなくて構わない。認知科学は現在多くの人が関心をもつ領域である。したがって、実際にどのようなことが研究されているかを示すのが最適の理解の仕方だろう。認知科学そのものを見る前に、人間の心や脳を研究している他の領域を見ておこう。そこから認知科学独特の研究方法が見えてくると思われる。
 神経科学は人間の神経組織、つまりは脳を研究する。そこでは脳の物理的な性質や機能だけでなく意識のような高次の現象も研究されている。
 認知心理学は知覚、学習、記憶といった(脳ではなく)人間の心の性質を研究する。では、脳と心は異なるのか。心理学者が人間の記憶について語るとき、何かを思い出している誰か、つまり、別の人間の心を想定している。心理学者が理論をつくる場合、この想定された心を使って考えている。心理学においては人間主体が何かをするということが研究の前提になっている。
 人工知能(AI, Artificial Intelligence)は人工的な認知過程の研究である。AIは直観的には心の働きを機械的につくりだすことを目標にしている。どのようにしたら心の働きをもつ機械をつくることができるか。これが目標である。よく聞く例はチェスを指すコンピューターである。現在のコンピューターはチューリング・マシーンによって概念的に基礎付けられている。
 言語学は人間の言語を研究する。心理言語学(psycholinguistics)は言語獲得とその神経的な基礎を研究する。認知言語学(cognitive linguistics)は言語とそれ以外の認知過程、例えば、空間認知との関係を研究する。言語教育は応用言語学の対象である。計算言語学(computational linguistics)は言語過程のモデルを扱うが、言語に基づく人間とコンピュータの結びつきを考える際に重要になる。
 哲学では心の哲学と呼ばれる領域で、人間の心とは何かを考える。私たちは機械に過ぎないのか。コンピュータは考えることができるのか。心と脳の関係はどのようなものか。心的状態はどのような状態か。哲学では心が登場する科学において心について語り、考える概念的な枠組みを追求する(私たちが現在ここで取り組んでいることである)。
[未来の心の科学像]
 上のような異なる領域の研究が統合され、心の科学がいつの日か成立するのだろうか。心の科学の最終的な姿はどのようなものか。歴史的に眺めると、認知科学は心の科学に対する極めて有力な候補であった。それは人間の心を記号処理装置、ある種のコンピューターとみなす。したがって、まず認知科学人工知能認知心理学の融合であった。この試みは1950年頃から始まる。今日、これに言語学神経科学が更に付加されようとしている。心理学の他の領域もこれに加えられている。この融合において出てくる問題は哲学的な議論として活発に論じられており、これには物理学さえ巻き込まれている。私たちはまだ心の科学の真の姿を見ていないが、人間の心の最終的な理論が認知科学と呼ばれるだろう。
 さて、このような特徴づけは正しいだろうか。最初の定義の時点に戻ってみよう。認知科学は、人間の心を情報を受け取り、蓄え、変形し、伝達するシステムとみなした。これは情報処理システムとして心を考えることである。これら情報過程は様々なレベルで分析できる。このレベルの存在が認知科学の中に多くの領域を取り込む鍵になる。一つのレベルが具体的な実装(implementation)であり、神経科学の対象である。他は実現される計算的な仕組み(computation)で、人工知能や論理が対象にしている。これら二つのレベルが融合し、神経ネットワークを生み出し、別のレベルをつくることになる。心理学的なレベルは更に高次のレベルで、主体全体が対象である。哲学的レベルはメタレベルである。
 情報過程は表象的(representational)である。表象は認知科学の概念のなかでも極めて重要である。私たちの神経装置は外部世界を表象しなければならない。それら表象は有意味で、志向的である。つまり、心は、

記号化された情報を処理する働きをもった記号的システムであり、表象とそれに働く計算の過程からなっている、

と特徴づけられることになる。今まで述べてきたことから、認知科学は、論理学、言語学をもとにした言語論的転回の具体的産物の一つであることもわかるだろう。

認知科学の哲学あるいは機能主義にまつわる哲学的問題
 認知科学と機能主義はどのような関係にあるのか。かつてスコラ哲学がキリスト教の神学を支えていたように、機能主義は認知科学を支えている。この意味で認知科学の哲学的な基盤は機能主義にある。いわば、認知科学の御用哲学である。それと同時に、認知科学の展開によって生まれてきた心の哲学が機能主義であるとも言える。いずれにしろ、認知科学と機能主義の間には密接な関係がある。ここでは心の機能主義のもつ問題を中心に考えてみよう。

ブロック(Ned Block)の機能主義の問題
[多重実現性の問題]
 既に述べたように機能主義の特徴の一つは多重実現可能性によって心の性質を捉えたところにあった。心が何からできているかではなく、どのような働きをするかが心を理解する鍵である。神経細胞だけでなく、シリコンチップの集まりでも心の機能は実現できるという点に機能主義の特徴があった。しかし、この考えは以下のような議論で逆に機能主義の不十分さをあらわにすることになる。
 機能主義はコンピュータを使って説明される。これをブロックは巧みに次のように説明する。その内部状態がFiで、入力がIiならば、出力がOiであることを表すチューリング・マシン Tが完全に記述されたと想像してみよう。すると、このシステムTはM = T(F1, ...; I1, ...; O1, ...;)の形の文で記述できる。この文は各内部状態Fi、入力Ii、それに対応する出力Oiの指令の集合を表現している。Mを機械記述と呼んでおこう。すると、次のように機械記述を一般化することによって可能な入力、出力に関するシステム内部の機能的体制の抽象的な記述が得られる。

T(F1, ...; I1, ...; O1, ...)であるような内部状態 F1, ...の集合が存在する。

これは元の機械記述Mのラムジー文(Ramsey sentence)と呼ばれるものである。それは抽象的な意味でTの状態についての内部の機能的体制が入力と出力の間の中間にあることを示している。機能主義は、心の仕組みに関して正しい機能的な記述Mが存在し、その記述Mに対してMのラムジー文が内部状態F1, ... のある系列に対して真であるどんなシステムも私たちと同じ心をもつと主張する。さらに、F17が私たちの痛みの機能的役割を演じる状態であるとすると、「痛み」は私たちの機能的な体制から次のように定義されることになる。

システムSは痛い状態にある ⇔ T(F1, ...; I1, ...; O1, ...)がSの機械記述で、Sは状態F17にあるような内部状態F1, ...の集合が存在する。

 ブロックによれば、上のように特徴づけられた機能主義は余りに広すぎるか、あるいは余りに狭すぎるかのいずれかになってしまう。彼の議論は上の機械記述の入力と出力の曖昧な定め方に基づいている。もし入力と出力が観察可能な周囲の環境と行動として一般的に記述されるなら、機能主義は余りに広すぎる主張になる。例えば、あるロボットがあなたの心的生活の機能的体制をすべて模倣するようデザインされるとする。ロボットはあなたと同じように見るし、行動もする。しかし、あなたの脳が内部の神経細胞によって作られる機能的な体制であるのとは違って、ロボットの機能的体制は中国人すべてから作られ、各中国人があなたの内部状態Fiの役割を演じるようにすることができる。そして、人々は機械記述Mで定義された内部構造を模倣するように相互に行動し、中国人の状態に機能的に同型な状態にあなたがあるなら生み出されるのと同じ出力Oを生み出す。機能主義によれば、中国人からなるシステムとロボットはあなたと同じ心的生活をもつことになるだろう。これは奇妙である。機能主義はこの奇妙な結論を説明できない。
 ブロックによれば、機能主義者が上の結論から逃れる一つの方法は私たちの実際の神経的な入力と出力によって入力と出力を定めることである。しかし、このように定めると今度は機能主義が狭くなり過ぎてしまう。私たちの心的概念は人間だけがもつ特別な生理学的特徴によってだけ決まっているのではない。こうして機能主義者はジレンマに直面することになる。私たちはどの程度の詳しさで入力と出力について記述すればよいかの基準をもっていないのである。
 既に繰り返し述べてきたように、機能主義は認知科学が抽象的な計算過程として心の本性を解明することを支える哲学的支柱であった。したがって、機能主義への攻撃は心の科学としての認知科学への攻撃である。確かに私たちの思考には抽象的な計算的側面がある。だが、それが心の働きのすべてではない。

(問)適切な詳しさの機能主義についての基準があるかどうか考えてみよ。