サールの「中国語の部屋の論証」への補足

 サールの議論はわかりやすく、説得力ももっているように思われる。だが、どこか何かおかしいというのが私を含めた多くの人の反応で、それが何なのかを考えてみよう。サールの描く中国語の部屋の人はコンピューターであり、それは自分が何をしているか知らない、盲目的で憐れな存在として描かれている。そんなバカなコンピューターがなぜ人間を遥かに越える能力をもつことができるのかが説明できないこと、それこそがサールの議論が根本的に誤っていることを示しているのではないか。つまり、サールの議論を受け入れるならば、コンピューターのもつ能力は説明できないことになるのである。
 サールによれば、コンピューターは統語論しか扱えず、意味論をもてないということになっていた。だから、中国語の部屋の人は何もわからずに記号を変換しているだけであり、それがコンピューターのしていることと同じで、したがって、コンピューターは何も理解していないのだという結論だった。
 水槽の中で生かされている脳は外から入る刺激を処理し、世界の現象を知ることができるというSFを想い出すならば、中国語の部屋の人はこの脳によく似ている。さらに、ある文が何を意味しているかを、登場する語彙の意味を辞書で調べることによって知るということにも似ている。脳も中国語の部屋の人も、そして辞書で調べる人も世界の現象や出来事に言及し、指示することなく、文の意味を知ろうとしている点で共通しているのである。サール風に言えば、「何を指示しているか」という意味論はもてないが、その代わりに「別の表現をすれば何か」という意味論をもとうとしているのである。
 私たちは多くの知識をもつが、その大半は直接に知るのではなく、例えば書物や画像を通じて間接的に知る。その間接的な知り方は誰かに聞く、教えてもらうという仕方であり、別の表現によって知ることなのである。極端な謂い方をすれば、私たちは中国語の部屋の人や水槽の中の脳に似た知り方をしているのである。
 中途半端に聞こえる結論は次のものである。私たちは機能主義的な知り方と対象を直接指示する知り方の両方を巧みに使い分け、また両方を融合して使っているが、コンピューターはどちらかと言えば前者の知り方を先にマスターし、後者の知り方を学習中なのである。