心(8)

デカルト的な自己知識
 科学的な心の研究から離れて、伝統的な哲学の問題を伝統的なスタイルで考えるとどうなるだろうか。哲学的な議論は経験的な知識が不足している場合には有効だが、しばしば推論に推論を重ねるということになる。そこにはアブダクション帰納法、アナロジーがふんだんに使われ、既知の知識、常識との整合性あるいは対立が推論の健全さの目安となる。通常、その結果は議論の長さに比して僅かなものでしかない。以下の議論もこのような特徴をもっている。
 さて、デカルトの主張で気になる部分を考えてみよう。自己についての知識と他人についての知識に関する問いは哲学のなかだけでなく、日常生活でもよく登場する問題である。デカルトが自己知識(self knowledge)を強調して以来、それは私的で内的な世界で進行する意識的な知識であり、私だけが特権的に知ることのできるものと一般に受け取られてきた。誰もが、「私のこの気持ちは誰にもわからない。私だけが知っている」と呟いたことがあるだろう。このような「直接に知ることのできる、証拠のいらない、自分自身についての知識」と対照的なのが「行動の観察を通じて得られる環境や他人についての知識」である。心の科学はこのような観察による知識に基づいている。日常生活でも他人の観察とその結果の利用は実に重要な役割を演じている。

[自己知識]
 自己知識に関する最初の明確な表現はデカルトのものである。各個人が自らの心について唯一の、特権的な立場を取ることができるという主張はデカルトの深い哲学的な直観であった。人が自分自身の(信念、欲求、思考等の)心的状態についてもつ考え、意見を「一人称の意見(first-person opinions)」と呼ぶことにすると、自らの心に対して特権的であるとは、自らの心的状態について信頼できる意見をもつということである。一人称の意見が表明される言明を「一人称の報告(first-person reports)」と呼ぶとすると、それらは「私は考える」、「私は信じる」、「私は疑う」といった表現を含んでいる。それら報告は、まず心的状態の内容、次に、話者本人のその内容に対する態度を含んでいる。つまり、一人称の報告は「ある人の心的状態の内容とその内容に対するその人の態度の両方に関する一人称の意見」を表明している。一人称の報告を使って、自己知識に関する仮説を再度書き記しておこう。

一人称の報告は、その人が何を信じているか(疑っているか)を確定しようとする時には特権的である。

これを一人称特権説と呼んだとすると、どのような理由でこの特権説が認められているのだろうか。心をもつということのなかには自らの心の状態について知る立場にあることが含まれている。これを可知仮説と呼んだとすれば、一人称特権説から可知仮説が導き出され、一人称特権説は心の概念の一部をなしていることがわかる。可知仮説はデカルトと信頼可能性理論の違いの重要な一つであった。可知仮説は心的状態と物理的状態の違いを捉えている。「雨が降るだろうと考えている」ような心的状態と体重が65キロだという物理的状態は何が異なっているのか。「雨が降るだろうと考えている」状態にある人は自分が「雨が降るだろうと考えている」状態にあることを知っている。ある心的状態にあることとその心的状態にあることを知っていることの間には強い結びつきがあるように思われる。一方、自分の体重が65キロであること(65キロの状態)を知らない人はたくさんいる。体重65キロとそれを知っていることの間には何の結びつきもなさそうである。それは偶然的なものである。可知仮説がないなら、一体どのように心的状態について話すことができるのか。一人称の報告をそもそもどのようにつくることができるのか。このような点から可知仮説は正しいようにみえる。
 可知仮説が想定している知識とはどのようなものか。私たちは自分自身の考えを知る時、それが正しいことの証拠を求めない。その知識の獲得には証拠を集める必要がない。その意味で一人称の意見は無根拠(groundless)である。この無根拠という性質を使って自己知識の仮説を書き直すと、

一人称の報告は、その人自身の心的状態を確定する時にはその本性上無根拠である、

となる。哲学が議論の出発点とする第一の原理、それ自身は何かによって基礎付けられることがない原理という特徴を自己知識の仮説はもっていることになる。これは既に述べた基礎付け主義には願ってもないものである。
 では、心をもつことが自分自身の心的状態を知る立場にいることであるという可知仮説は疑う余地はないのか。日常経験は疑うことができる理由を与えてくれるように見える。太郎は哲学の試験が簡単だと考えていると自分で言ったとしてみよう。彼の一人称の報告は「哲学の試験は簡単だと私が信じている」という内容である。だが、実際には太郎は毎日試験勉強に励み、彼が信じていると言ったことを本当は信じていないような行動をとっていたとしてみよう。私たちは彼の行動からその一人称の意見は嘘であると言うだろう。太郎は哲学の試験が簡単だと自分で誤って信じていると私たちは思うかもしれない。実際、彼は簡単だと信じていない。このような自己欺瞞があるなら、私たちは自己知識が完璧で完全であることを否定しなければならない。ところで、可知仮説には知識が完璧で完全であるという条件は入っているだろうか。そのような条件は可知仮説には含まれていない。

(問)可知仮説と知識の信頼可能性理論はどのような関係にあるか。
(問)「空が青い」ことと「空が青いことに気づく」ことの違いは何か。

[他人の心の知識についての仮説]
 他人の心的状態の知識を手に入れることができる場合があるという仮説について考えてみよう。これは仮説というより、日常当たり前のことである。他人の気持ちを知るということは日常茶飯事のことであり、他人の気持ちの報告が正しいかどうかはその報告内容に十分な証拠があるかどうかによって決定される。そして、私たちの社会生活はこの仮説が正しいというもとで成立している。実際、社会科学はこの仮説無くしては研究不可能である。社会心理学が扱うのは他人の心であって、社会心理学者自身の自己知識ではない。

デカルト的方法:自己知識をモデルにした理論
 自分自身の心についての知識を説明の出発点にするという姿勢はデカルトに顕著に見られる。彼の「第二省察」の最後に知識の本性に関する考察がある。ある人が対象の時間的な変化にもかかわらず、その対象の知識をもち続ける際にその人は何を知っているのか。これが彼の問いであり、それを蝋(ろう)を使って考えた。蝋についての知識はその感覚的な性質から得られる知識である。しかし、デカルトによれば、蝋はあらゆる変化を被りながら感覚的な性質を変えていくが、それが蝋であるという私たちの知識は変わらない。ここから彼が得る否定的な結論は、蝋が変化するにもかかわらず明確な蝋の知識が得られるのは感覚的な観察によるのではないということであった。そして、デカルトは蝋の知識に関する別の説明を提案する。蝋の知識は変化する感覚的知識ではなく、蝋の変化を通じて保存されるものの知識である。蝋の物理的な変化を通じて不変なものは蝋自体の中にはない。それは私たちが蝋についてつくる観念である。蝋自体の知識は特定の蝋についてのある人自身の観念の知識である。デカルトにとって、蝋の知識の直接の対象は蝋自体ではなく、蝋の観念である。この目論見では、私たちは世界を直接に知るのではなく、世界についての知識は直接に知られるもの(=世界についての私たちの観念)から推論によって導き出されるものである。

(問)デカルトによると、蝋と蝋の観念は何が異なるか。

[自己知識のデカルト的モデル]
 デカルトは自己のもつ観念には二つの特徴があると考えた。まず、それは私的な領域の知識である。したがって、その人自身にしか近づくことができない。二番目に、この知識は誤ることができない知識である。私的な意識のなかで起こるものに直接に結びついているので、途中に誤りの入る余地はない。
 心が本質的に私的であるというのは法律上のものではなく、形而上学的なものである。原理的に、ある人自身の心で起こっていることに近づくことは他人にはできない。このように考えると、心はその所有者以外が入ることのできない完全にその人の私的な劇場のようなものである。この比喩では他人の心を知る可能性が排除されているように見えるが、そうではない。劇場に直接入らなくとも中で何が上演されているかは知ることができる。但し、直接知ることはできない。このようなデカルト的枠組みは次の三つに整理できる。

1自己知識は今まさに起こっている観念の知識である。
2これら観念はその人自身にしか近づくことのできないものの中にある。
3その中のものの存在と内容についての知識は誤ることのないものである。

その人自身の知識という考えは観念自体の本性に向けられることになる。デカルト的な哲学は観念についての考察を通じて、観念についての説を心的表象(mental representation)に対して使うことになる。また、志向性の類似説もここから出てくる。
 観念が心的表象であれば、それらが何を表象するかを決めるものがなければならない。牛の思考についての何かがその思考を牛についてのもので、馬についてのものではないことを決めなければならない。観念が表象するものを決めるのはその観念の何なのか。心像説は、観念が心像であるゆえに観念の表象するものを決めると主張する。では、どのように心像は表象に成功するのか。それを説明するのが志向性の類似説である。像はそれが表象するものに類似することによって表象するというのがこの説である。この説が心的表象に適用できるとするなら、心的表象自体は絵画的な特徴をもっていなければならなくなる。心像説はこのことを主張しており、観念は心眼による絵画のような像である。
 こうして、その人自身の観念を知るとは、その人の心の劇場にある心像をその人の心の眼で見ることである。この比喩的な表現を避けようとすれば、内観(introspection)という概念を用いることになる。心の眼で見るとは内観することである。

(問)牛を見て、その表象をもち、それを内観するとき、内観の内容は牛なのか、それとも牛の観念なのか。

[他人の心の知り方]
デカルトの自己知識は私的で他人には近づくことができないということを考えれば、他人の心を直接知ることはできない。では、他人の心が存在することをどのように知ることができるのか。この問いに対する答えはミルによれば次のようになる。まず、その人自身の心とその人自身の身体の間に因果関係があることはその人の自己観察からわかる。第二に、他人を観察することからその人の身体の運動についての知識を獲得する。第三に、他人の動きで観察された系列と自分自身の観察による系列を比較することができる。第四に、他人の観察が増えるに連れ、自分の観察と比較しながら、自分の動きの場合と同じ型の原因が他人の動きにもあるということを確かめることができる。最後に、自分の身体的な動きの原因は心的な原因であることを既に知っているので、他人の場合も同じであると結論できる。そして、このようなアナロジーをもとにして、世界には自分自身と同じような他人も存在すると結論できる。この推論の系列は他人の心の存在だけでなく、それがどのようなものかを決める方法も示している。こうして、他人の心の存在とその働き方がわかることになる。

(問)自分についての観察と他人についての観察に違いはあるか。