デカルト的な「意識」への補足

 デカルトが自己知識(self knowledge)を強調して以来、それは私的で内的な世界で進行する意識的な知識であり、私だけが特権的に知ることのできるものと一般に受け取られてきた。誰もが、「私のこの気持ちは誰にもわからない。私だけが知っている」と呟いたことがあるだろう。このような「直接に知ることのできる、証拠のいらない、自分自身についての知識」と対照的なのが「行動の観察を通じて得られる環境や他人についての知識」である。
 一人称の報告は、その人自身の心的状態を確定する時にはその本性上無根拠である。デカルトは自己のもつ観念には二つの特徴があると考えた。まず、それは私的な領域の知識である。したがって、その人自身にしか近づくことができない。二番目に、この知識は誤ることができない知識である。私的な意識のなかで起こるものに直接に結びついているので、途中に誤りの入る余地はない。
 心が本質的に私的であるというのは法律上のものではなく、形而上学的なものである。原理的に、ある人自身の心で起こっていることに近づくことは他人にはできない。このように考えると、心はその所有者以外が入ることのできない完全にその人の私的な劇場のようなものである。この比喩では他人の心を知る可能性が排除されているように見えるが、そうではない。劇場に直接入らなくとも中で何が上演されているかは知ることができる。但し、直接知ることはできない。このようなデカルト的枠組みは次の三つに整理できる。

1自己知識は今まさに起こっている観念の知識である。
2これら観念はその人自身にしか近づくことのできないものの中にある。
3その中のものの存在と内容についての知識は誤ることのないものである。

その人自身の知識という考えは観念自体の本性に向けられることになる。デカルト的な哲学は観念についての考察を通じて、観念についての説を心的表象(mental representation)に対して使うことになる。また、志向性の類似説もここから出てくる。
 観念が心的表象であれば、それらが何を表象するかを決めるものがなければならない。牛の思考についての何かがその思考を牛についてのもので、馬についてのものではないことを決めなければならない。観念が表象するものを決めるのはその観念の何なのか。心像説は、観念が心像であるゆえに観念の表象するものを決めると主張する。では、どのように心像は表象に成功するのか。それを説明するのが志向性の類似説である。像はそれが表象するものに類似することによって表象するというのがこの説である。この説が心的表象に適用できるとするなら、心的表象自体は絵画的な特徴をもっていなければならなくなる。心像説はこのことを主張しており、観念は心眼による絵画のような像である。
 こうして、その人自身の観念を知るとは、その人の心の劇場にある心像をその人の心の眼で見ることである。この比喩的な表現を避けようとすれば、内観(introspection)という概念を用いることになる。心の眼で見るとは内観することである。
 既にこのように述べたのだが、そこに登場する「意識(consciousness, awareness)」について基本的な事柄を再確認しておきたい。幻覚、幻聴、錯覚、忘却等の精神異常の場合の自己意識、認知症患者の自己意識、そのような異常な自己意識は反デカルト的意識の一つの型なのだろうか。正常でない自己意識の存在と分類はどのようなものか。このような問いを念頭に起きながら、誰かが何かを意識していることと意識している内容について丁寧に分析してみる必要があるのだろう。だが、それには周到な準備が必要である。その一歩を次のような事柄から始めてみよう。
 感覚器官を通じて入力された情報を脳内で処理することをコンピューターの情報処理とパラレルに考えるなら、それはプログラムの実行であり、離散的な変化の系列からなっている。力学的な運動変化が連続的であるのに対し、プログラムの遂行は計算過程として不連続な変化からなっている。不連続で離散的な計算過程はある状態から別の状態への移行であり、その変化を出来事と呼んでも構わないだろう。こうして、脳内の情報処理はプログラムの実行であり、それは脳内の出来事の系列からなっている。
 私が何かを意識する時、その意識自体をこれは夢だ、これは嘘だと否定できるか、という伝統的な問いがある。記述のように、私は私の意識を訂正できないというのがいつの間にか常識になってきた。そして、それを裏打ちするような経験を実際に私たちはしていると思ってきた。だが、果たしてそれは正しいのだろうか。
 私が「意識したこと」は否定したり、訂正したりすることができないが、私が「意識した内容」は否定したり、訂正したりできる。この表現はわかりにくいだろうが、出来事としての意識と意識の内容は異なり、その違いに注目してみよう。出来事、事実としての意識は否定できない所与のものだが、その意識が何を指示しているかという内容は否定することができる。
 出来事としての意識は脳内で起きていることであり、実は私が意識できない出来事である。他に適切な用語がなかったために意識と呼び習わしてきたが、別の言葉で呼ぶべきだろう。意識を出力とする情報処理過程をも意識と呼んできたが、その過程は意識できないもので、私たちが意識できるのは出力後のものだけあり、それは意識内容である。
 私の意識と私が言ったとき、それは何を意識しているかが言えなくては話にならない。だから、意識はその内容を指すのが普通である。意識は意識内容のことであり、「意識に直接与えられたもの、つまり所与」ではない。私たちが意識と呼ぶものは処理され、情報化、言語化、映像化ができるもので、それゆえ、像やイメージのようなものである。脳に起きている情報処理過程の結果に付随するものが意識と私たちが呼んできたものである。
 残念ながら私たちが意識と呼ぶものは出来事ではなく、それゆえ、脳内にはなく、脳内の最終過程に付随するものである。だから、デカルトが使う意識や自己知識はこの付随する意識内容のことなのである。