心(9)

デカルト的方法批判]
 デカルト的な説明の意義は次の二点にあった。まず、自分自身の心についての知識と他人の心についての知識は異なるという私たちの直観に対して、その説明を与えるものだった。さらに、一人称の特権性に対する基礎を与えることができるものだった。このような意義をもつデカルト的な方法に対して三つの重要な批判を取り上げてみよう。
 他人の心が存在するというミルの論証がアナロジーに基づくものである点をまず考えよう。アナロジーに基づく推論においては、結論の確からしさはせいぜいそれを支える証拠の確からしさと同じである。実際、ミルの結論は「他人の心の仮説」であり、いくつかの証拠に基づいて最善の説明をするための仮説、つまり、アブダクション(abduction)の結果である。科学においてはこのような仮定は珍しいことではない。原子の存在はその証拠が提出される遥か以前のギリシャ時代から仮定されていた。しかし、デカルト的な枠組みにおいてさえ、他人の心の存在を仮定して他人の行動を説明する以外の説明方法は考えることができる。心的でない、機械的な原理の結果として他人の行動の観察結果を説明することが別の説明方法としてあるなら、他人が単なるオートマトンではなく、心をもっているということがどのようにして言えるのだろうか。他人の心の存在を認めることのほうがオートマトンを認めることより単純であり、仮定は単純なほうがいい、これがミルの答えだった。
 次に二番目の批判に移ろう。デカルト的な見解はある人自身が心的状態をもつとはどのようなことかということから、他人自身が心的状態をもつとはどういうことかを導き出している。しかし、注意深く調べるならば、他人が心的状態をもつことをこのように導き出すことには矛盾がある。デカルト的な枠組みの中ではその人自身以外の人が心的状態をもつという考え自体意味をもたない。したがって、他人の心の存在は懐疑論に陥ってしまう。この論証は言語理解に関するものであり、与えられた文を理解することについてのテーゼは次のものである。

任意の話者が与えられた文を理解するには、その文の正しい使用についての基準をもっていなければならない。

ところで、「正しい使用についての基準をもっている」ことと「正しい使用についての基準を明確に述べることができる」こととは異なる。したがって、話者はその基準を明瞭に述べることができなくとも、文を理解することができる場合があるだろう。さらに、「正しい使用についての基準をもっている」ことは「その基準が満たされる時にはそれが満たされることを知っている」こととも異なっている。この二つの区別がなされるならば、このテーゼは確からしく見える。
 では、この文理解の基準を他人に心的状態を帰属させる文に適用してみよう。具体例で考えるのがよいだろう。

伊作は哲学がつまらないと信じている。
史門は痛みを感じている。
花子はパチンコをしたい。

いずれの文もある心的状態(信念、痛み、欲求)をある人(伊作、史門、花子)に帰属させている。常識的に私たちはこれらの文を理解できる。「哲学がつまらないと信じている」、「痛みを感じている」、「パチンコをしたい」という(心的)述語だけを取り出しても、私たちはみな理解できる。さて、もしデカルト的な見解を受け入れるなら、他人の心で起こっていることは論理的に私的なことで、その人以外の誰にも近づくことはできない。すると、ある心的述語の正しい適用の基準はその人以外にはもつことができない。デカルト的見解が正しければ、私たちは心的状態を他人に帰属させる文を理解できないことになる。つまり、自分自身に対してだけしか理解できない。そして、心的状態を他人に帰属させる文を理解できないのであれば、他人が心をもつとはどのようなことかを実際には知らないということになる。
 最後の批判はさらに厳しい。デカルト的な見解では、ある人自身の心像の一人称報告は心像を正しく記述する概念を適用するということである。心像を正しく記述する概念は心像の表象を記述するようなものである。概念の適用について語ることに意味があるということを厳しく批判したのがウィットゲンシュタインである。彼の『哲学探求(Philosophical Investigations)』での批判は、概念の適用はその本性上規範的な事柄(正しく使う、誤って使う)であるという考えに基づいている。この規範性は、今の場合、与えられた概念が与えられた場合に正しく適用されるか、誤って適用されるかの決定の仕方を想定している。だが、この想定は私的な心像への概念適用に対しては満たされない。彼は有名な私的言語の論証(private language argument)でこのことを示す。真の規範の存在は誤りを犯す可能性を想定する。概念適用における誤りの可能性は、その概念が正しく適用される条件と自らの概念の適用を比較でき、その正しい適用の基準を見出せる可能性を必要とする。しかし、デカルト的な見解では、概念を適用するのは論理的に私的なことである。すると、概念の正しい適用の唯一の基準はその人がその適用の時に正しいと考えるものだけとなる。これは、概念の正しい適用に見えるものと概念の正しい適用であるものの間に区別がないことを意味している。もしそうなら、概念適用に関して語るべきではないことになる。
 以上がデカルト的な見解に対する批判である。これらの批判を受け入れるなら、心を私的ではないものとして考えなければならなくなる。それが次の私たちの課題である。

(問)心が私的とはそもそもよどのうなことか。
*私的な言語があるかどうかも考えてみよう。