現象や仮象、実在や物自体

(現象も仮象も、そして彼岸のものも遺物と紙一重で、心して捉えるべき概念ではないという寓話)
 彼岸でも此岸でも「仮象(Schein)」とは架空のもの、フィクション、創作のことです。偽物であって実在しなくても、文学作品の中の仮象は有意味で、必要だと思われています。プラトンは「イデア」こそが真の実在で、知覚される現象や現実は信用できない仮象だと断じました。彼には彼岸はイデアの国なのです。そして、私たちの知覚経験は信用できない経験で、嘘や偽りが紛れ込んでいる、だから、知覚経験を介在させずに真なる知識を手に入れようと多くの人が考えるようになりました。彼岸にある真理に準えて此岸の知識が考えられたのです。そして、「実在」なる概念が設置され、具体的に経験できる此岸の個物はこの彼岸の実在を通じて理解されるようになりました。
 此岸に住むカントは、主観が構成するものを「現象(Erscheinung)」と呼び、主観を触発するにもかかわらず、主観によっては捉えられないものを想定し、それを「物自体」と呼びました。誰にも捉えられないものが存在するというのは今では随分と都合のよい主張に思えますが、物自体はイデアや実在からなる彼岸の存在に似ていますが、真理の指標ではありません。
 今の私たちは此岸の自然現象や社会現象として天変地異、戦争や貧困を思い浮かべ、それらを生み出す要因や原理をそれら現象とは区別して捉えます。その意味では、現象は物理世界や社会の出来事や変化自体のことで、私たちが経験するものそのものです。カントの現象は主観が生み出す知覚内容ですが、私たちが現象と呼んでいるものは物理世界の個々の出来事、変化のことで、知覚経験と同じとは限りません。こうなると、「個物」、「第二性質」、「現象」、「実在」、「物自体」、「仮象」などは今の私たちには判じ物でしかなく、遺物となった概念と言っても構わないと思います。
 (此岸で)知覚しているもの以外のものが(彼岸に)隠れていると想定して知覚する場合、例えば、システム、内部構造、変化する構造などを念頭に知覚する場合と知覚しているものしか想定しない場合とで主観が構成する現象は違ってくるのか、それとも変わらないのか、いずれなのでしょうか。より具体的に、進化する生物の場合、進化の過程という現象(通常は知覚できない現象)に対応する物自体は、あるとすれば、一体どんなものなのなのか。構成される進化、構成される変化、構成される、解釈される自然が現象的な自然だとすれば、(彼岸にある)物自体はどのようなもの(自然)なのか。「進化」現象は進化する過程という現象ですが、(彼岸の)物自体の進化とは何なのか、そもそも物自体は進化するのでしょうか。
 実在や物自体は変化せず、生成せず、消滅せずの不変のものだと思われていました。でも、現象は変化するものと今でも思われています。「物自体に触発されて主観が構成するのが現象」ということは、物自体と現象の間には構成に関する法則的な関係があることを示唆しています。これは実在と現象、実在と個物についても類似の議論ができます。
 自然種(natural kinds)は進化します。自然種の一つである生物種(biological species)も進化し、歴史が生まれます。進化現象を結果する実在、物自体、イデアは進化しないのでしょうか。
 ここでカントの擁護をしておきましょう。カントの「現象」と「物自体」の区別は、ドクサ(仮象)とエピステメー(真の認識、知識)というギリシャ以来の区別とは異なり、当時とすれば驚くべき新機軸だったのです。例えば、カントによれば、科学者が経験するのは「現象」なのですが、それは物自体でも仮象でもありません。カント以前の哲学者は、感覚から仮象が生じる、それゆえに、感覚からは独立した理性による認識が真理の獲得には不可欠だと考えていました。カントが彼らと異なるのは、仮象をもたらすのは感覚だけではなく、理性そのものによってもある種の仮象が生み出されると考えた点にあります。そして、彼の哲学(=認識論)は、そのような理性を批判(考察、吟味)することにありました。その結果、そのような仮象を取り除くことは容易ではないことが判明するのです。例えば、「自己」というものは仮象だとカントは考えます。とはいえ、もし自分がないとしたら、人は尋常な心理状態を保てず、正に我を忘れた人になってしまいます。そこで、カントはそのような仮象を超越論的仮象と呼んで区別しています。
 (歯切れよい台詞を使えば)彼岸と此岸の区別は現在ではいたしません。その意味で、上述の概念のほとんどは過去の遺物と言っていいでしょう。遺物に代わる区別は理論と観察であり、それを表現するのが第1階の述語論理の言語の役割ということになりました。この基本パラダイムは暫く変わらず、安定しています。とはいえ、区別がある、区別を認めることは遺物の基本と共通するものなのです。
 ですから、ここまでの話はすべてが遺物ではないという寓話でもあります。