変化の歴史(5)

プラトンの哲学
 自然主義的な研究の次に登場するのはそのような研究の結果である知識や、それを表現する方法に関する好奇心である。そして、実在、信念、方法等が自然主義的だけでない仕方で考察されることになる。
ソクラテス
 ソクラテスは「Xは何か」という問いに答えることが哲学の役目であり、Xの正しい定義がこの問いへの答えになると考えた。彼にとっての定義は単なる語句の定義ではなく、事物の定義であり、したがって、事物の本質の正しい記述が定義となる。それゆえ、定義は客観的で、知識(と道徳)にとって基本的なものだった。
 ソクラテスによれば、定義はそれを満たす対象を列挙するだけではわからない。その理由は次のようなことである。例えば、3の倍数を定義したいとする。3、6、9、…と3の倍数を列挙していくことはできるが、その完全なリストを挙げ切ることはできない。6の次は何かと問われれば9と答えることはできるが、それは背後の原理によって6の次の3の倍数が列挙されることだと私たちが考えるからである。不完全なリストは定義にとって必要でも、十分でもない。この理由は帰納法そのものと帰納的な定義が不可能であるからである。これはベーコンの帰納法を使った方法論とは相容れない考えであり、その後の経験レベルでの帰納と際立った違いを示している。

(問い)事物の本質は観察や実験によってわかることと、それが定義によって与えられるということの違いを説明せよ。

プラトン
 プラトンの科学観はピタゴラス主義と同じように抽象的である。特に、感覚で理解される世界は誤りやすく、理性で理解される世界ほど信頼できないと彼は考えた。これは観察の軽視、数学的理解の重視を意味している。現象の背後にある数学的形式への偏りは天文学への貢献となった。彼は惑星の見かけの不規則さを完全な運動、つまり、円運動の組合せによって説明することが天文学の問題だと考えていた。以下にプラトンが考えた主な事柄を挙げてみよう。
(メノンのパラドクス)
 ソクラテスは誤った定義をどのように排除するかは語ったが、どのように正しい定義に到達するかは語らなかった。メノンのパラドクスはこれを鮮明にしたものである。

1 あなたが探しているものを知っているなら、探すことは必要ない。
2 あなたが探しているものを知らないなら、探すことはできない。
3 それゆえ、探すことは必要ないか、できないかである。

このパラドクスの前提は、あなたが探しているものを知るか、あるいはあなたが探しているものを知らないかである。(どうしてか。)そして、この推論が妥当であるためには「あなたが探しているものを知る」が1と2で同じように使われていなければならない。そこで、次の二つの文を考えてみよう。

A あなたは答えたい質問を知っている。
B あなたはその質問の答えを知っている。

Aの意味では2は真であるが、1は偽である。Bの意味では、1が真で、2は偽である。だから、1と2が両方とも真であるようなことはない。Bの意味での1とAの意味での2からは何の結論も出てこない。
(想起説)
 ある意味で探し求めることは不可能だとしてみよう。何か新しいことを学習するように見えるのは、実際は既に知っていることを想起しているに過ぎない。これが想起説である。これに対し、想起は経験的な場合にはあり得ないのではないかという疑問がすぐに浮かぶ。「今隣の家で誰が食事をしているか」、「この樹は何枚葉をもっているか」は想起することによって答えられるのか。経験的な事柄に関しては確かに以前知らなかった、新しいことを初めて知ることができるが、経験的でないものについてはどうか。ここには経験的な標準的方法はない。「正義とは何か」という問いはこのような典型である。プラトンの理論はこのような問いに対する答えを私たちは精神の中に既にもっていると主張する。答えを見出すことは精神から取り出すことである。では、この想起説をプラトンはどのように証明するのか。
 幾何学の定理Pについて考えてみよう。子供は6歳のときPを知らないように見える。15歳のときPを知る。6歳から15歳までの間、子供はPの知識を獲得していない。だから、何か生得的なものがある、アプリオリに知ることができるものがある。このようにプラトンは考えるが、それは何なのか。次の三つが候補として有力である。
1 命題:幾何学の定理 2 概念 3 推理能力

(問)プラトンによれば、なぜ想起できるものは経験的なものではないのか。

イデア説)
 一般的な形而上学的、認識論的な理論で、プラトンの考えの中心にあるのがイデア説である。だが、不思議なことに彼の著作のどこでも系統的に論じられていない。
 イデア説は仮定された抽象的対象に関する理論で、抽象的な対象はソクラテスの「Xは何か」という問いから出てきた。「Xは何か」に対してただ一つの正しい答えがあることを前提にし、正しい答えは単なる規約ではなく、イデアという存在の正確な記述が正しさを保証してくれるという理論である。イデアは、不変、永遠、可知的で、物体的ではない。イデアを使うことによって、さまざまな哲学の問題が解ける。イデアの存在証明には幾つかあるが、その一つだけ見てみよう。

不完全性からの論証:これはイデアの存在と私たちがアプリオリな概念をもつことの両方の論証になっている。プラトンは感覚される対象が不完全であることとそれらについて判断する私たちの能力に基づいて論証する。ここではイデアは完全な対象であると見なされている。『パイドロス』74-76の論証は同等性の概念に関わっているが、他の概念にも同じように適用できる。論証は同じ対象の感覚経験から同等性を抽出できないことを示そうとする。

感覚される対象をFであると知覚する。
しかし、どの感覚される対象もせいぜい不完全にしかFでない。つまり、それはFであり、Fでない。
私たちは知覚する対象についてこの不完全さを知っている。
だから、私たちは対象を不完全にFであると知覚する。
不完全なFとして何かを知覚するために、私たちは心の中に完全にFであるものをもっていなければならない。
それゆえ、Fそれ自体のようなものが存在し、それは感覚的な対象とは異なっている。

 この推論の現代版には次のような例がある。言語学者のチョムスキー(Noam Chomsky)は古典的な合理主義者の推論を「欠乏した刺激からの推論」と呼んでいる。私たちは実際に経験する物理的な形を幾何学的に完全な図形の不正確な表象として分類する。なぜ私たちは経験する形を不規則な図形の正確な表象と考えないのだろうか。理由は私たちの感覚刺激が欠乏しているからだと考えられる。私たちは決して完全な図形を経験しない。だが、そのような概念はもっている。それらを使って経験するものを分類する。私たちが概念の適用されるものを経験していないのならば、それらの概念をどのように獲得したというのか。

(問)不正確な図形を正確に知覚することと正確な図形を不正確に知覚することとは同じ結果をもたらすだろうか。「正確な図形」と「正確な知覚」における「正確な」は同じ意味だろうか。また、「正確な知覚」と「不正確な知覚」は経験的に区別できるだろうか。

 プラトンの物質理論はエンペドクレスの4元素(火、空気、水、土)に基づいている。さらに、彼は4元素のそれぞれを完全な形式と同一視する。火は4面体、空気は8面体、水は20面体、土は立方体と同一と見なされる。そして、例えば、20面体が二つの8面体と一つの4面体に分解されることによって、水は火と空気に分解されると彼は考えた。現代風には分子や原子の理論に似ている。だが、物質のどんな性質も最終的には実験の助けなしに純粋な思考だけから演繹できるというプラトンの強い確信は、以後の科学的発展へのブレーキとなった。(超紐理論はプラトン的で、どんな物理現象も基本的な数学的モデルから演繹されるべきだと主張している。)

*このノートの前半部分は前回のノート「月光仮面からプラトンまで」と重なっています。