風の音:流体力学

 辰巳の森では大抵の風の音は車の騒音にかき消されてしまいます。「風の音」となれば、花鳥風月、雪月風花に欠かせない一つで、風流な詩歌の素材です。自然がもたらす快楽を享受し、それを表現した詩歌は、自然を賞味し、消費する点で、自然を分析し、生産する科学とは好対照なものです。風の音を味わうのではなく、それを科学的に説明しようとすると、和歌や俳句ではなく流体力学の助けが必要になります。

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 音の原因は、物体に風が当たると発生する「空気の渦」(空気の振動)です。では、どんな渦ができるのでしょうか。風が物体に当たったときに、風下にできる渦の数は、「風が強い」と多く、「風が弱い」と少なくなります。音の高低を表す周波数は、この渦の個数で決まります。「風が強い」と、渦の数が多いので周波数は高く(音が高く)、「風が弱い」と、渦の数が少ないので周波数は低く(音が低く)なります。ですから、縄跳びで、縄の回転が速いと音は高く鋭くなり、遅いと音は低く鈍くなります。ところで、広場に立っていても風の音は聞こえますが、これは自分自身に風が当たり、「空気の渦」が発生しているからです。音の原因、音の高低と周波数の関係がわかれば、思い通りの音をつくり出すことができます。

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 風流とは程遠い風の仕組みとは違って、風の音を味わう文学では何が私たちを惹きつけるのでしょうか。与謝蕪村の句に「秋来ぬと 合点(がてん)させたる嚔(くさめ)かな」があります。くしゃみをして、秋が来たことを納得した、という句です。この句は実は藤原敏行の立秋の歌のもじりです。

秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる
古今和歌集藤原敏行朝臣、秋が来たと目にははっきり見えないが、風の音を聞いて(秋が来たと)気がつきました。)
(秋の気配は見えないが、風の音でわかると敏行は詠んだのですが、どんな風の音かとなればわからず、そこを蕪村はわかりやすく「くしゃみ」の音にした訳です。)

 文学が科学に勝って人々に愛されるのは快楽の度合いが違うからと思われています。娯楽の享受は食事の享受に似て楽しいもので、科学の苦しい追求と比較されるのですが、これは実は大間違い。娯楽を生み出し、提供することは苦痛ですし、文学作品の創作も艱難辛苦の連続であるのに対し、科学の成果を享受することは楽しいことです。文学は享受することが強調され、創作の苦痛はなかなか共有されません。科学は新しい事実の発見や新理論の構築の苦労が強調され、科学の成果を享受することは語られる割には目立ちません。ところが、私たちは科学の成果を存分に享受し、それがなければ生活さえ立ち行かないまでになっています。私たちの日常生活は科学の成果だらけで、科学に頼り切り鈍感になっているだけなのです。

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 自然エネルギーとしての風を思い出せば、風の利用とは風の享受だということがわかります。(画像は風や音の享受の代表例です。)