時間の変化(6)

時間の向き
次のような時間を特徴づける表現を見てみよう。

時間の「方向」
時間の「矢」
時間の「非対称性」
時間の「非等方性」
時間の「流れ」

最後の表現は「流れ」が方向や非対称性を含意するように見えるために挙げたが、「流れ」が時間の現在についての客観主義をもとにしており、以後の話では除外されるものである。ここで次のような区別が役に立つだろう。
 よく出される問いの一つは時間そのものについてのもので、以前と以後、過去と未来の間の違いは何かといった問である。別の問いは、時間のなかに存在する事物についての問いである。なぜある物理過程は一方向にだけ起こるのか、なぜ原因は通常結果に先立つのか、といった問いがこれに当たる。時間がそこで出来事が起こる容器のようなものなら、この区別は容器に対する問いとその中のものについての問いの違いである。

(問)上の時間の「方向」から「非等方性」までについて、それらを時間自体の性質と考える場合と、時間の中で起こる出来事の集まりの性質と考える場合の違いを具体的に述べよ。

[時間それ自体についての問]
 時間は方向をもつのか、あるいは方向をもたないのか。時間自体が方向に関して非対称的であることを示す例は多くある。例えば、過去は有限だが、未来は無限であると私たちは直観的に考える(なぜか)。塊状世界の有り様について二通り考えることができる。始まりがある世界と、終わりのある世界の二つである。これらは二つの異なる世界なのか、それとも同じ世界を違った風に見ただけなのか。単に見方の違いに過ぎないというのであれば、過去と未来、以前と以後の実質的な違いはないことになる。時間それ自体の非対称性が過去と未来、以前と以後の実質的な区別を与えてくれるとは考えにくい。
 ただ一個の石しかない世界があり、その石が一定の割合で大きくなるという物理法則に支配されていると想像してみよう。すると、この世界の物理学は非対称的である。ある方向に変化する物理過程があるが、別の方向に変化する過程は存在しない。時間の内容についてのこのような事実は時間それ自体が「方向」をもつことを示しているだろうか。この世界での時間の一つの方向が客観的に「未来」や「以後」であることを示しているだろうか。答えが肯定的なら、別の可能世界があって、石が一定の割合で小さくなるような別の法則があることも認めなければならないだろう。だが、これは本当に別の世界なのだろうか。単に同じ世界を異なる仕方で(例えば、鏡に映すことによって)見たに過ぎないのではないのか。
 このような議論から、物理的な内容の非対称性が時間自体の方向に関して何か有益なことを述べてくれるかどうかは多いに議論の余地があるという結論になる。実際、時間に関する動的な見方をあきらめるなら、時間自体の方向について問題があることは明らかではなくなる。だが、物理的な内容、つまり、時間の中で起こる出来事の方向、あるいは時間非対称性については興味深い問題がある。
 時間自体の非対称性の問題は時間の非等方性の問題とも言われてきた。「等方」とは「あらゆる方向に等しい」という意味である。常識的見解では、時間が非等方的であることを示すには、物理法則の時間に関する「選り好み」を示すことである。 この考えは時間自体の方向、非対称性、非等方性の問題を時間の内容、つまり物理的な対象を支配する法則の問題に結びつけることになる。
 そこで、時間の中にある出来事の非対称性に話を移してみよう。なぜ幾つかの物理過程は一方向にだけ起こり、他の方向には起こらないのか。例えば、熱湯は何もしなければ冷めてしまうが、何もしないのに熱くなることはないのか。なぜ原因はいつも結果より先に生じ、後から生じることはないのか。なぜ私たちは未来より過去についてよく知っているのか。このような問にうまく答えられなくとも、特定の方向にだけ変化するという時間的なバイアスを示す物理過程はたくさんある。このような過程はまとめて「時間の矢(time’s arrow)」と呼ばれてきた。
[時間の矢]
 「熱力学」は「熱の運動に関する科学」であり、19世紀中葉に完成された。熱の研究の中で見つかったことは、熱が熱い物体から冷たい物体へと流れ、その逆には決して流れない(不可逆性)ということだった。これは熱の流れが方向をもつ、つまり、「時間の矢」をもっているということを意味している。
 最初に熱力学の第二法則を思い出しておこう。それは次のような内容である。

エネルギーは散逸する、あるいはエントロピーは増大する。

19世紀の後半、物理学者は熱力学を物質の本性に関する基本的な仮説から説明しようとした。 その仮説とは、物質はたくさんの小さな粒子から構成されているというものだった。これは正に原子論の主張である。その基本的な構想は、小さな粒子の集団の平均的な性質を統計的に記述することによって、物質の観測できる「巨視的な」性質が説明できる、というものだった。そして、この考えは実際に、気体の温度、圧力、体積についての性質をうまく説明することができた。これが統計熱力学である。
[ボルツマンと時間の方向]
 ボルツマン(1844-1906)は統計力学がどのように第二法則を説明できるかを執拗に追求した。なぜ事物の秩序は次第に失われていくのか。この問いに対して、彼が与えた答えは、秩序がつくられるより、それが失われるほうが圧倒的に多いからということだった。
 4個のボールを二つの箱に入れる場合を考えてみよう。すべてのボールを一つの箱に入れるには何通りの方法があるだろうか。答えは明らかで唯一通りしかない。ところが、2個のボールをそれぞれの箱に入れる組合せは6通りになる。ボールが気体の粒子だとすると、その数は莫大で、しかも各粒子が勝手に二つの箱に出入りするとなると、箱に入る粒子の分布の仕方も莫大なものになる。このような可能な場合をもとに、どのような分布が他の分布よりどのくらい多いかを考えるのが統計力学の基本的な仕事である。一つの箱にすべての粒子が入っている場合はそれ以外の場合に比べ圧倒的に数が少なく、したがって、そのエントロピーは低い。粒子の運動を自由に許すなら、粒子は次第に二つの箱に均一に分布するようになっていくだろう。というのも、そのような場合のほうが圧倒的に多いからである。これがエントロピーは増大していくことの説明の原型となる。
 このような確率・統計的な考えから出てくる結論は科学法則に対するそれまでの科学的な常識とは大きく異なっている。第二法則は厳密な、あるいは普遍的な法則ではないというのが常識に反する結論だった。通常の物理法則は例外のない法則である。これこそが科学法則が物理的な必然性を反映していると考えられてきた性質だが、ボルツマンの主張は、第二法則はせいぜい確率的なものに過ぎないというものだった。粒子が勝手な運動をするなら、一つの箱にすべての粒子が入ってしまう場合がないとも限らない。この事実は既に「マクスウェルの魔物」と呼ばれる思考実験でマクスウェルによって指摘されていた。第二法則が普遍的でないということの認識は19世紀後半の物理学者にはショッキングなことだった。だが、第二法則が確率的であっても、それはやはり時間非対称的だった。それはエントロピーが増大し、減少することはほとんどないと主張していた。だが、この主張は大きな問題を孕んでいた。というのも、原理上、各粒子の運動は古典物理学によって記述され、その古典物理学の法則は時間対称的なものだったからである。ボルツマンによる粒子についての組み合わせ的な議論のどこにも時間の方向は入っていない。すると、どこで第二法則の主張する時間のバイアスが入ったのか。実際、このような疑問は同僚のローシュミットの批判としてボルツマンに突きつけられた。ローシュミットはニュートン力学が可逆的で、気体が散逸するなら、その逆も同じように可能であると指摘した。

(問)ボルツマンによる確率的な第二法則の解釈と集団遺伝学での自然選択の確率的な解釈を比較しながら、マクロな世界での確率の適用はどのように解釈できるか説明せよ。

<ボルツマンと第二法則>
 「時間の向き」とエントロピーの関係を統計力学の19世紀後半の展開を通じて考えてみよう。19世紀中葉には物理過程の幾つかは不可逆的であることがわかり、高温から低温への熱の流れはその代表例だった。それら過程はクラウジウス(Clausius)によって「エントロピーが増大する普遍的傾向」として説明された。
 原子論的な熱の運動理論は粒子の運動が物体の熱的な性質にどのように関連するか説明しようとする。この理論では熱力学は物質の構成要素の力学的振舞いに還元されることになる。だが、それが還元可能なら、力学法則が時間対称的なのになぜ熱現象は不可逆的なのかという問題が出てくる。この問題に最初に取り組んだのがマクスウェルであり、彼は熱平衡にある気体の速度分布を定式化し、熱平衡をこの分布によって特徴づけた。
 ボルツマンは1872年にH定理と分子混沌の仮説(the molecular chaos hypothesis)を発表した。彼は気体分子の衝突の結果として分子の分布はマクスウェルの分布に近づくことを示し、気体がマクスウェルの分布にあるときに最小の値をとる量Hを定義した。気体がマクスウェルの分布にない場合は、衝突によってHの値は時間とともに減少する。気体はマクスウェルの分布に近づくように変化し、Hが最小になり、終には熱平衡に達する。彼はHに負の符号をつけた-Hがエントロピーを表すと考えた。では、H定理の前提は時間対称的な力学なのに、どうして時間非対称的なH定理が導出できたのか。その理由は分子混沌の仮説にあった。この仮説は、衝突する前の粒子の速度は相関していないが、衝突後の速度は相関している、と主張している。比喩的に言い換えれば、衝突前の二個の粒子は互いに相手を知らないが、衝突すると互いに相手を知ることになる。この主張は明らかに時間非対称的である。つまり、衝突の前と後とで粒子間の関係は変わる。この仮説が時間非対称的だということは、問題を解いたというより、エントロピー増大の非対称性を分子混沌の非対称性を使って説明したことを意味している。時間非対称性の証明としてはいわゆる論点先取の誤りをおかしたということである。
 ボルツマンの考えはその後上の論点先取を含む二つの批判を受ける。彼の同僚ローシュミットによる可逆性のパラドクスは、気体を構成する分子は古典力学の時間対称的な法則に従うので、エントロピーが増大する変化があれば、それを時間反転した変化ではエントロピーが減少することが言え、H定理に反する、というものである。このパラドクスはトムソンも指摘し、彼らは第二法則の例外なしの普遍性に反対する論証と考えた。
 二つ目の批判はポアンカレ再帰定理とそれを応用したツエルメロのパラドクスである。1893年ポアンカレは、力学システムは最初の状態に限りなく近い状態にいつかは戻るという定理を証明する。3年後にツエルメロはこの定理の簡略版を気体の運動理論に適用し、気体の初期状態は再帰的でなければならないので、H定理は誤りであると結論した。この批判は現在の理解では、ポアンカレ再帰定理とH定理は前提が微妙に異なるので両立可能と考えられている。ポアンカレの定理は抽象的な点集合について成立する条件の下で証明できるが、H定理の前提である実際の物理的な粒子のシステムではこの条件は成立しない。
 その結果、ボルツマンの統計的な議論もまた時間対称的であることが認識された。このことは熱力学的な時間の矢は存在しないことを示しているように見える。すると、次の二つの問題が出てくることになる。

1 なぜ私たちはエントロピーが過去に向かって増大するのを見ないのか。
2 なぜエントロピーは現在低いのか。

ボルツマンは次のように解答する。無限に古い宇宙ではエントロピーはほとんどいつもその極大値に近い。しかし、極めて稀に重要な「ゆらぎ」が偶然に生じる。つまり、二つある箱の片方にすべての粒子が入るというような事態が稀ながら偶然に起こる。ほとんどの時間、宇宙は大変冷たく、何の特徴もないが、そのような稀な偶然の中から現在の私たちが存在することになった。私たちのような生物は利用可能なエネルギーが十分ある領域でだけ存在できる。そして、実際私たちは現在存在している。だから、稀な偶然のゆらぎが起こった。
 これは「人間原理(anthropic principle)」を使った推論の一例である。人間原理宇宙論でよく使われる推論の仕方であり、観測される事実のある側面をそれとは異なる、より大きな事実への人間中心的な視点を使って説明する。私たちが、エントロピーが低くなる方向にではなく、高くなる方向に私たち自身を見出すのは偶然のことだろうか。この問に対してボルツマンは偶然ではないと考える。というのも、私たちはエントロピーが高くなる方向を未来として見るように仕向けられている。ボルツマンは次のことを示唆している。客観的な「時間の方向」はない、つまり、以前と以後の間に違いはない。時空の異なる部分にいる、異なる観測者は時間の方向についての異なる「主観的」な感覚をもつことができる。